見出し画像

another choice

大学受験で、幸運なことに、いくつかの魅力的な合格校から進学先を選ぶことができた。そして最近、内省する時間が多いので過去の”選んでこなかった”選択肢について考える。

もし。

今進んでいる道と違うものを選んでいたら。

私は今どんな人間になっていただろうか。


中学二年生。

水泳で関東大会の出場権を得た。嬉しかった。しかし私は同時に、同時期に行われる市のオーストラリア研修にも合格していた。本格的に水泳を始めたのが中学に入ってからだったので、幼少期から続けている子よりも水泳に対する執着は薄かったし、私にとっては夢の海外であるオーストラリアのほうが魅力的だった。

だから関東大会は辞退した。今でもofficial result paperには、順位と名前の横に不自然なほどに目立つ「関東辞退」の文字が残っている。

所属クラブの友達は幼少から水泳に一番力を入れて上位大会を目指す子ばかりだったので、私の辞退を知った時には、

「ありえない」

「関東蹴るとか意味が分からない」

「おかしいんじゃないの」

そういわれた。今でも覚えている。関東大会に行けなかった友達からも、いっしょに出場するはずだった友達からもそういわれた。きっと陰ではもっと言われていただろう。

中学三年生になって、県優勝のおまけつきでちゃんと関東出場権を再び得た。決勝にも出た。当時は全国出場を目標にしていたものの、そこそこ満足している。

でも。

もし。

中学二年生で、オーストラリアではなく関東大会を選んでいたら。

一緒に出場した友達とは特別な絆が生まれ、上位大会出場の経験を積んだおかげで三年生では目標の全国を突破していたかもしれない。関東だったとしても、表彰台に手が届いたかもしれない。

憧れの大会を即座に辞退したことへの蔑みの目を向けられずに済んだかもしれない。ぎくしゃくしなかったかもしれない。今でも仲良くご飯に行って、プリクラでも撮っていたかもしれない。

クラブの居心地の悪さを理由に高校入学を機に水泳を辞め全くの初心者で空手なんか始めずに、周りの期待通りにインターハイに出ていたかもしれない。


コルトンは著書の中で「人生はしばしば、善よりもむしろ悪の選択をわれわれに提供する」とした。

かのチェーホフすらも、「すでに生きてしまった一つの人生は、つまり下書きで、もう一つのほうが清書だったらねえ」といった。

私の選択は、善だったのかしら。清書だったのかしら。それとも、another choiceから見える景色の方が美しかったのかしら。

選択が正しいかどうかはきっとしばらくわからない。わからないけど、2020年7月現在、私は、私にたくさんの出会いと仲間と可能性をくれた今までの選択が好きだ。





この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?