古明地こいし的な供述を真似た何かの文章

私は5分前ぐらいに5分前ぐらいの友達に大量のカラスが電線に群がっている動画を送ろうとしたのだが思ったよりカラスがカラスというよりただの黒い点の集まりにしか見えなかったのでこれではつまらないなと思い雑に眼鏡を拭こうとして使ったティッシュペーパーをゴミ箱に捨ててからこの文章を書いている。「この文章を書いている」という文をここで繰り返して鉤括弧を付けた数秒前の自分と指先に先ほど浴びたシャワーの温かい感覚が残っていていつもより気持ちよくキーボードを打ち込んでいる自分って同じなのかしらんなどと思ったのは「『この文章を書いている』という文をここで繰り返して鉤括弧を付けた数秒前の自分と指先に先ほど浴びたシャワーの温かい感覚が残っていていつもより気持ちよくキーボードを打ち込んでいる自分って同じなのかしらん」と思った数秒前の私がだいたい同じ空間に存在しただけで多分おおよそ今の自分は卒論を書かなければならないという思いが胃の中にあってそれは確実なのだが「思い」と打とうとして先に「重い」が変換に出てくるのはなんだか的をえている......と書こうとして的を「射る」だっけかなって不安に思って手元のスマホで調べてみたら「『的を射る』と『的を得る』正しいのはどっち?」とかいうはっきりしないタイトルの記事が複数ヒットしてまるで続きはCMの後で!みたいなもどかしさがあるなとイラつきながらそういえば最近テレビ見てないなと思ってそもそもなんでこんなことしてるんだろうって思って顔をあげたら......って書こうとして別に顔あげなくてもさっきタイトル決めたばっかりじゃんって結局左上に表示されているであろうこの記事のタイトルの文字をちゃんと見返すことはなかった。いわゆる古明地こいし的な供述とは古明地こいし的な潜在的無意識を孕んだ古明地こいし的な自由とみせかけた文章でありその実体を突き止めるべく私はこの文章を書き続けているとか気が狂ったから気が狂ったかのごとくキーボードを叩いているとかそういったものではない。そもそも文章を書く目的などはなから存在するわけがなくこの「はなから」の「はな」は何の漢字なのかそれとも漢字で表す必要はあるのかなどと思った私の心情をここにありのまま吐き出しておいて結局その問題を解決しないままこの文章を書き続けるのもまた自由である。その自由をもって冒頭のカラスたちの鳴き声を池の前で聞いていた数時間前の自分は果たして「聞」いていたのか「聴」いていたのかでもあのときより今の自分の方がカラスの鳴き声をより鮮明に思い出すことができるから「聴」の漢字が正しいのかもしれないしそうでもないかもしれないしという葛藤(みたいな何か)や時間という名の距離がある複数の自分などの曖昧模糊とした存在を文章として書き表すことによって少しでも整合性が取れればいいな~でもそんなことして意味あんのかな~と思いながらもこの文章を打ち込み続けることを止めないこの指先こそが古明地こいし的な供述を真似た何かの文章の実体を知っているのかもしれない。なんだろうこんな時間に。玄関の方から何か物音(ノックする音?)が聞こえた。そのことに私は恐怖を覚え、この文章にようやく読点を打ち込みながら、そこの空白で深呼吸をした。その瞬間、私の指先が古明地こいし的な供述を真似た何かの文章の実体とやらを逃がしたからだろうか、それともシャワーを浴びてからだいぶ過ぎたからだろうか。この文章を書くために指先の次に動かしていたはずの脳が停止し、それに続いて指先も休息を求め始めた。私は、卒論を書かなければならない。「私は、卒論を書かなければならない」と打ち込んだからには、もうこの文章とは別れなければならない。これ以降を、「古明地こいし的な供述を真似た何かの文章」を真似た文章で続けるべきではない。以上。

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