#8【リベラルの後退】

『コロナ後の世界には』何があってほしくて、どうすれば皆が楽しく暮らせるのか、一つずつ自分の望みを書いていきたいと思います。自由とは。

我が国日本の感染症対策は、一言でいえば「お願いベース」である。外出自粛要請、飲食店の営業自粛要請、コロナ患者の受け入れ要請と、ただひたすら主権者たる国民に請うている。

欧米諸国と比較してもこれだけ個人の自由を尊重する態度が我が国に深く根付いていたとは、コロナ前にはおおよそ想像もつかなった。これは皮肉である。

リベラルとはまず個々人の判断の正しさを信じ、その上で個人に自由をより与えようとする態度であると言える。人間が適切な情報を与えられれば、ごく当然に適切な行動を選択するであろうことが前提になっている。情報が完全に公開されれば、自由を大幅に認めることがもっとも効率的な社会の動かし方だと信じている。

コロナ禍でいみじくも指摘されたのは、そうしたリベラルの敗北であった。権威主義国と思われている国々が半ば強権的な統制を敷いて感染症の再生産数を抑え込んだ一方で、自由を基礎として重んじる国々では未だに感染の波から逃れることが出来ていない。

感染症に関する情報が完全には浸透していないという反論は、危機が長期化すればするほど説得力を失ってきていると言えるだろう。リベラルの敗北ではなく日本政府の怠慢だとしても、政府がリベラルの反撃を恐れてきたことは事実である。存在そのものが不運な結果をもたらしているという事実は否定することが出来ない。

では我々は自由を大幅に制限する道を選ぶべきなのだろうか。そうは思わない。今回敗北したのはリベラルのうちの強い方である。絶対的な自由を信奉する、言わば、リベラル原理主義が敗北したのである。

弱い方のリベラル、穏健派リベラルは、公共の福祉のためにならば自由の制限をより幅広に認める立場であると考える。一部の欧米諸国のうち、これまでに感染者数を抑え込むことに成功した国にはこの穏健なリベラルが根付いていたことが結果として証明されたと言える。

従来の比較政治学では明らかにされていなかった、結果としての我が国リベラルの影響力を、皮肉にもコロナ禍が解き明かしてしまった。極左言論の支配力は、大手メディアやSNSクラスター、”知識人たち”によってじわじわと我が国を蝕んでいる。私は彼らの存在を否定するわけではない。ただ、彼らが存在すら許さないような彼らにとっての対抗言論を、もう少し真面目に検討してみるべきだと思っている。

コロナ禍を生き残った世界の国々を見れば、総じてリベラルは少しばかり後退するだろう。ただ決して敗北はしない。敗北させてはならない。行き過ぎた自由の信奉を改め、それでも固く自由の価値を擁護していく、そんな穏健な立ち位置を我々は求めていかなければならない。

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