#4【政府への信託を再構築する】

『コロナ後の世界には』何があってほしくて、どうすれば皆が楽しく暮らせるのか、一つずつ自分の望みを書いていきたいと思います。支え合うこと。

今回のコロナ騒動で大きく注目をされたことの一つに、「政府への批判」があろう。ここで取り上げ考察するのは、個々の政策への批判その中身ではなく、政府を批判するという行為そのものだ。例えばあなたは、コロナ対応をする政府に対して、どのような意見・感情を持っているだろうか。

政府へのその考えを批評したいわけではない。しかし、政府という存在の本質を理解し、考えのその先を、その先にある望まれるべき態度と行動を、ここに整理しておきたいと強く思うのである。

そもそもなぜ、あなたはコロナの対策を政府に任せておきながら、その失策を偉そうに批判する権利があるのか。それは紛うことなくあなた自身があなたの自己決定権の一部を、かつて政府に寄託したと推定されるからである。ここまでの社会契約説に大きな異論はないと思いたい。

問題はこの先、その政府を自身とは完璧に分離した完全独立体であると認識するか、それとも自身を含め多くの市民が共同して運用する装置であると認識するかで、個人の態度が大きく変わってしまう。

外出自粛をさせるな、損失を補填しろ、入国を禁止するのが遅い、マスクは要らない、政府のコロナ対応は評価できない。こうした感想を抱きその唱道に終止する人々は、政府を独立体だと認識しているわけだが、いわば彼らの態度は「客」である。自己決定権の一部を前払いしているのだから、これから一生わたしの面倒は政府が見てよねと、もし気に入らないことが起こったらそれは契約違反で政府の責任だろと、そうした推論が暗に脳裡で展開されている。
封建制の時代にある程度こうした思想が存在することは理解できるところではあるが、現代民主主義社会でこの理論が展開されるのはいささか心配だ。

平等な市民がともに手を携え社会を構成する、現代における民主主義の理想とするところは正に参加型の共同体という形で現れるものではなかっただろうか。もちろんそうした社会を革命権の発動でもって作ろうとしているのだという主張は考えられる。しかし、それにしてはあまりにも行動に真実味が欠けるし、ここで詳述はしないが現下の我が国の政治状況では現実的とは思えない。

政府とは、自身を含め多くの市民が共同して運用する装置であると認識することこそが、責任ある社会への態度であると私は考える。
いわば、政府の行動はあなたの選択の結果であり、さらに踏み込むならば、政府はあなたそのものと不可分の一体を為すのである。
私は要りもしないのに政府が勝手にマスクを配ってけしからん、ではなく、
私は政府をしてマスクを配らせてしまったが実は必要ないのだから選択を反省しなければいけないなと、そのように思考することが出来るならば未来は明るい。

政府が勝手にやったのではなく、あなたが政府にやらせたのだ。政府が私のために動いてくれないのではなく、私の意思が政府を動かしてきたのだと気づくこと。

結果を受け入れて諦めろといっているわけではない。大切なのは、むしろこれからだ。いま気に入らないという感情に気付いたならば、あなたが、私たちがやるべきことは建設的な批判であり、提案であり、「参加」である。

ここでいう「参加」は、これまでのような惰性によるものではない。前向きに、寛容な心持ちで、既存の統治機構に向かい合い直すことである。私たちの力を預かっている政府の存在を受け入れ、かといって無批判に従うのではなく(そんなことは原理的に出来ない)、その手で未来へ向け操縦する意思を持つこと。

それが、政府への「信託」を再構築するということだと思う。いま、一人一人のその決意が、支え合うということに繋がり社会を守っていく。大切な局面にいると私は思う。

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