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ヌーヴェルヴァーグの衝撃

インプットを沢山したのでアウトプット。


■歌舞伎「正札附根元草摺」「流星」「福叶神恋噺」
英語学校に通っていた時、「日本文化を教えてください」という質問に対して脳死で「歌舞伎」と回答した。「It shows dancing and…」と言いながらそういえば歌舞伎って一度も見たことないかもしれない、と思った。積極的に海外に行きたがるわりに自国の文化を知らないとはいかがなものなのだろうか。…という動機から歌舞伎鑑賞へ踏み切った。

実は歌舞伎町には歌舞伎の劇場は一つもない。けれど、最近建設された東急歌舞伎町タワーで歌舞伎の公演がやっているらしいので、そこに行ってみることにした。

2時間で3演目。最近は人気の作品の一部分をまとめて行うスタイルが主流らしい(ミドリ?)。

「正札附根元草摺」
父の仇を討とうとする男とそれを止めようとする女の一幕。初演は1814年。鎧の草摺(裾の部分)を引き合いながら話が進んでいく。歌舞伎にはこういう何かを引き合う演目がよくあるらしい(?)。男の気迫と女のしなやかさの対比が見どころ。
人生初の歌舞伎の演目としてはふさわしかったように思う。派手な着物、隈取、長唄(三味線、大鼓、小鼓)、等々、何もかもが新鮮だった。ただ、イヤホンガイドがないと何しているのかよくわからなかった…。
男と女が並んでいるからこそ際立つ、動きや発声の表現の差異がやはり面白かった。漠然としていた歌舞伎のイメージにピントが合っていくようだった。

「流星」
流星が雷夫婦の喧嘩の一部始終を語るという話。正札附根元草摺と同様にこちらも古典的な演目らしいが、当時(江戸時代)を舞台にした演目に対してこちらは伝承をもとにした演目となっている。流星の役者が一人で父雷、母雷、子雷、婆雷を演じ分けるのが見どころ。
三つの演目の中で一番面白かった。役者の動きと長唄で四役を演じる様は圧巻だった。そもそも僕は観劇自体あまりしないが、それでも歌舞伎の特異的なものを感じられた。
こちらは劇場でよく笑いが起きていて、前回の演目とは雰囲気が大きく変わった。歌舞伎はあくまで表現手法であり、内容も演出もかなり多様なんだと感じた。

「福叶神恋噺」
江戸の長屋を舞台に貧乏神がダメ男に恋をする新作歌舞伎。前2つが歌舞伎舞踊だったのに対してこちらは歌舞伎狂言だった(このあたりの固有名詞の使い分けに自信なし)。
狂言、つまり、喜劇だったので、こちらはイヤホンガイドがなくても内容が理解できた。注目すべきところは、新作歌舞伎ということで、江戸を舞台にしながらも現代のネタを取り入れていたところだろう。新規客を取り入れる試みなのか、斬新な演出だった。従来の歌舞伎ファンはどう思うのか気になるところ。伝統文化はこうして新しいものを取り入れながら変化していくのだろうか。そんな実験的な場面に立ち会った。


■映画「ファンタスティックプラネット」
1973年のアニメ映画。監督はルネ・ラルー(フランス)。こんな強烈なアニメが約50年も前に作られていたことに驚いた。全てが強烈すぎて、逆に何に着目していいかわからない。風刺的な内容(オム族とドラーグ族の対比)か、舞台設定(ドラーグ族の生態、惑星イガムの環境または文明)か、作画(絵画的な画面)か…。
今回は作画に注目したい。作品を作る際、多様な媒体がある中でどれを選択するべきか。本作がアニメという手法を取ったことに意義を感じた。つまり、本作が持つ不気味さは作画によるところが大きい。絵画的な画面によってその傑出した表現を成し遂げている。(闇落ちしたヒグチユウコのような…)
この世のものではないものを表現する時、アニメは特に親和性がある。その表現の可能性を約50年前の作品から感じた。逆に最近のアニメでこんな奇抜な作画のアニメはあるのだろうか。まどマギの魔女の演出なんかは近いものを感じる。うーん、というか、劇団イヌカレーの演出が好きだから本作にも好感を持ったのかもしれない。なんにせよ、切り絵&コラージュを用いた表現手法は魅力的だ。
海外アニメという枠で言えば、Netflixのミッドナイトゴスペルもかなりの衝撃だった。もっと海外アニメを開拓してみたら更に新しい発見があるかもしれない。


■映画「気狂いピエロ」
1965年の映画。監督はジャン=リュック・ゴダール(フランス)。実はゴダールは随分前から知っていた。伊坂幸太郎の作品で何度か引用されていたからだ。基本的に好きな作品で引用されるものは積極的に見る(あるいは読む・聴く)タイプなのだが、ゴダールの作品は何故か一度も見たことがなかった。長い時を経て、今回一作品見てみることにした。
恐ろしく退屈で奇妙な映画だった。滑稽な演技と無茶苦茶な脚本。理解が全く追いつかない。しかし、気づきもあった。奇遇なことにファンタスティックプラネットと同じ結論になってしまうのだけれど、表現の可能性を感じた。
画面の展開、モノローグの入れ方、小物の配置、表現は自由なのだと気づかされる。フランスの映画運動の最中の作品ということもあるだろうが、監督の表現の引き出しの多様さを見せつけられた。
映像作品だからこそ出来る視覚的に刺激のある表現を僕は見てみたいと思う。ただ、ゴダールの作品はもう見なくていいかな笑。

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