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ラブストーリー 上

「春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山ぎは……」
おばあちゃん先生は、普段は牛が草を食むように話すのに、朗読のときだけは小川のせせらぎのように詠じた。
僕は、その声を潮騒のように聞き流し、教科書の下で英単語帳を開く。
授業の内容はもうわかっていた。中学の時に一度習ったというのに、高校になって文法だとかをきちんと勉強するためにもう一度やるのだという。僕には必要なかった。

青い空。雲一つない空。空っぽの空。
蝉が鳴いていた。空蝉とは現世のことだ、この前授業で習った。
うつせみ。うつしよ。
「儚いからこそ美しい」僕にはよくわからなかった。美しいものを見たとき、それが消えることなど考えるはずもない。ただ、心が震えるのだ。その感動を遡及的に分析しようとして、きっと儚いから美しいに違いないと思うに過ぎない。エゴだ。美しいものでさえヒトの解剖下にあると信じている。定式化されたそれは、なおも美しいのだろうか。

「夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ……」
夜。なぜ夜なのだろう。昼間は暑いから、夜しかなかったのか。背中に伝う汗を感じながら、そんなことを思う。
……いや、夜も暑いよな。
エアコンは体に良くないと母親が決めたので、家では毎晩扇風機だけで酷暑を凌いでいる。
常夜灯の黒ずみ。網戸の錆び。扇風機がカタカタと鳴る。
あの蝉のように、扇風機も夏の間しか生きられない。それなのに、儚いと感じないのはなぜだろうか。人工物だからか。やっぱり、エゴか。あるいは、何十年か後、エアコンしかなくなったら、風情があるとか言われるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、扇風機がタイマーでふっと止まる。沈黙が耳を圧迫する。知覚を求めた私は、網戸の外を覆う夜空に目を向ける。数多の星が輝いている。
都会の人はこれを見て綺麗だと思ったりするのだろうか。
僕は、この夜空が嫌いだ。星が嫌いだ。夏の星は一際大きい。浮き出ている。拍動している。
夏の星は、生きている。

「冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず……」
いつのまにか終わりそうだ。慌てて開いていた単語帳のページだけでも、と覚える。
先生は読み終わると、日本の四季の美しさとか、自分なりの枕草子を書いてみよう、とか言っていた。その間に僕は今日予定していた単語を覚え終わった。


休み時間は大体寝ている。
寝苦しい夜のせいで日中はいつでも眠い。10分しかない休みで眠気がとれるわけはないが、それでも寝たから大丈夫と自分を誤魔化すことは出来る。
いつものように机に伏せようとしたら、とん、と肩を叩かれた。
「ね、ここわかんなかったんだけどさ、ちょっと教えてくれないかな」
隣の席の女の子だ。最近話すようになった。
「あ、ごめん、寝たかった?」
「ん、いいよ。どこ?」
空が、僕らを見下ろしている。

放課後、「イチ、ニーッ」と叫んでいる野球帽たちを尻目に帰宅する。
「ただいま」
「おかえりー」
母は専業主婦だ。今日の夕ご飯はカレーらしい。肉は入っていない、有機野菜だけのカレー。肉なんて誕生日のときにしか食べられない。誕生日は祖父母が祝ってくれるので、その日だけは治外法権になるのだ。両親に誕生日を祝ってもらったことはない。鍋がぐつぐつ言う音を尻目に自分の部屋へ向かう。
今日の宿題を広げる。数学のプリント。平方完成を100問くらいやらされる。こんなの真面目にやったって意味はない。さっさと終わらせて他の自主学習に充てた方がいい。だから、答えを見ながら書き写す。とはいえ、書き写すと言っても100問もあれば、少し時間がかかる。その間に母が部屋に入ってくる。
「学校から出た宿題はきちんとやりなさい」
ここで逆らってはいけない。なぜなら、逆らうに値する合理的理由がないからである。
宿題は自分でやるべきだ。それは正しい。ただ、正しさの重みづけは人によって異なる。しかし、そう反論しても意味はない。「家族だから」その一言で無に帰す。家族だから、価値観も同じで、正しさも同じであるべきだと。
だから、この感情は間違っている。僕は、間違っている。
嫌悪を磔に、理性を生かす。

放課後、すぐに帰宅するのもそれと同じ理由だ。前に教師たちから、勉強ばかりして碌な大人にならないぞ、と言われたから、放課後学校周りを30分走ってから帰ることにした。
僕の帰りが遅いことを心配して、母はそんなことはやめなさい、と言った。
僕は僕を磔にした。
教師たちからは、部活をやっていないから何かを続ける精神力がないのだ、と揶揄された。
そうなのかもしれない。そう思った。
走っている時、その色しか知らないみたいに輝く白い太陽は哀しかった。自分はそれが嫌でやめたのだ、自分の中ではそう結論付けることにした。
その日の帰り道、惨めを磔に、平穏を生かした。
精神力がないとはこういうことなのかもな、ひとり歩いていた。
思えばあれも夏だった。照り返すガードレールが鮮明に白だった。
この頃から夏が嫌いになっていった。


もうすぐ夏休みだ。
体育の授業では、炎天下に当て付けるように長距離走をさせられていた。生徒たちは、来る夏休みのことを話しながら歩いていたし、教師たちはクーラーが効いた部屋で野球観戦に興じていた。僕はこの時しか運動が出来なかったから、アスファルトを踏みつけ走った。精神力がどうのとか言っていた教師たちや、部活をやっているはずの生徒たちを踏みつけ、走った。何も変わらなかった。ただ、汗が蒸れて息苦しかった。
横溢するアスファルトと干からびたミミズ。落ち葉のようにあちこちに散っていて、女子たちは気味悪がっていた。僕は、そうは思わなかった。

その日の放課後も帰って勉強した。夏休みに入ると模試がある。学校ではそんなの誰も興味ないから、ひとりで電車を乗り継ぎ都市部へ受けに行く。夏は受験の天王山、と言われるが、受験生でなくとも纏めて勉強するには夏がいい。
旅行に行くような家族ではないから、かと言ってひとりでどこかに行こうとすると母親からの詮索が煩わしいので、毎年ずっと家にいて勉強している。時々、母親が入ってきて「学校の宿題をやりなさい」と喚くので、その時だけはくだらない漢字の宿題だとかをする。
毎年、そんなもんだ。夏とは、そんなもんだ。
枕草子の時、おばあちゃん先生が言っていた。夏の語源は「生」。生きるのもそんなもんだ。何も変わらない毎日。寝苦しい夜。息づく星。
あるいは。
干からびたミミズ。儚いとすら言われない扇風機。盲目的な白い太陽。
星が、亡くなった人たちの魂なのだとしたら、夏の空は死で溢れている。
饒舌な夏が死んだ後、秋がやってくる。夏は秋を羨むのだろうか。恨むのだろうか。秋は夏を惜しむのだろうか。愛おしむのだろうか。
僕は、秋を待っていた。


次の日、学校に行くと皆が夏祭りの話をしていた。
「お、きたきた。夏祭りだけどさ、お前一緒に行かない?」
「んー、どうかなー……あれ、あいつは一緒じゃないの?」
その友人と僕、もう一人がいつも仲良かった。
そいつはその場にいなかった、
「あ、あいつな笑」
にやにやしながら、友人が教室の端に目を遣る。そこにはクラスで指折りのかわいい子と、少し緊張気味の彼がいた。僕も同じ顔で友人を見返す。
「そういうことか」
「そういうことだ」
おー、がんばれよー、と二人で小さく応援する。チャイムが鳴った。気恥ずかしそうに、しかし嬉しそうにしている彼は、どうやら成功したらしい。
高く晴れた空が、僕らを見守っている。

5限目が終わり、いつものように寝ようとしていると、またいつものように、とん、と肩を叩かれた。彼女だ。
「お嬢さま、質問かい?」
僕が先手を打ってそう言うと、少しの間があって微笑みながら頷く彼女。
「そうなんだよ~、もうすぐ夏休みだというのに出来のわるいお嬢さまで…笑」
「まあまあ、夏休みは遊びたいしね。今のうちやっとくのがいいよな」
少し目を丸くして彼女は、
「夏休みも勉強してるのかと思った。遊んだりもするの?」
「人を何だと思ってるんだよ笑、遊ぶよ、夏祭りにも行こうかと思ってるし」
――嘘だ。
寂寞とも言えない少しの感情のささくれは、そんなものは間違いだと言い聞かせる。
そんなもんだ。夏とは、そんなもんだ。
瞳の奥を覗き込むような彼女の視線を感じて、僕はハッと取り繕う。
「あ、っと、どこがわかんないんだっけ?」
なぜか彼女もハッとして、教科書をわちゃわちゃしている。
大丈夫。ばれてない。知らん顔をしている空をそっと睨みつける。
「ん、これこれ、物理。この力なんで働くのかわかんないんだよね」
「これ、難しいよな。最初分かんなかったわ」
これはさ……、
納得してぱっと華やぐ彼女。計算をやり直している彼女の横で、僕はガラス越しの空を見る。空はガラス越しで見るくらいがちょうどいい。視覚だけで感じる空は身丈に合っている気がする。今日の空は、身重な雲を孕んでいる。一雨来るのかもしれない。
「……ってさ、よく外見てるよね」
彼女だ。解き終わったらしい。
「なに見てるの?」
「もしここでさ、テロリストが押し入ってきたら、どうやって逃げよっかなってさ」
咄嗟に嘘をつく。
「なにそれ、こんな田舎にテロリストなんてこないよー」
くすくす笑う彼女。
「いやいや、そう思ってるから危ないんだよ。よく映画であるじゃん、死亡フラグってやつ。」
真面目な顔をすると、彼女も同じ顔をする。いや、ちょっと笑ってるな。
「なるほど……。では、どうすれば無事に脱出できるのでしょうか?」
「まずはだな、そこの窓から一番近い木に飛び移るんだ。でも、この木を伝って降りると犯人に上から撃たれてしまうから、そこから、下の階に飛び移るんだ。」
「それを繰り返して下まで降りる、と?」
「おお、勘がいいじゃないか。誉めてつかわそう」
「ありがたき幸せ」
顔を見合わせ、笑いがはじける。ポニーテールが揺れている。
ひとしきり笑った後、目尻を押さえながら彼女、
「で、ほんとはなに見てたの?」
笑った顔のまま、瞳の奥を覗き込んでくる。吸い込まれる。
空が、青い。

放課後、帰る準備をしていると友人が近寄ってきた。
「さっき話途中になっちゃったけどさ、夏祭り、実は誰かと行く予定あったりする?」
「誰かって?」
「ほら、あの子だよ。よく話してる」
彼が目配せする。その目線の先は、隣の席の女の子だ。
「なんでだよ笑、そんなのありえねえって」
友人の訝しげな眼。
「お前、知らないの?」
そしてため息。
「あの子、お前のこと好きなんだよ。」
え。
「成績良いのに、お前にあんなに勉強教えてって……まあ、お前は気付かんか」
な、るほど。
「夏祭りにお前を誘おうとしてるって、女子が噂してたぞ」
頭が空白で覆われている。
「まあ、ちゃんと考えとけよ」
そう言い残して友人は部活に走っていった。

ぼーっとしたまま帰宅した。喜びはもちろんある。でもそれと同じくらい困惑も。
夏祭りはほとんど行かなかった。行けなかった。たまに母親の機嫌がいいときがあって、その時は行かせてもらえた。それが嫌で、前にこっそり行った時は癇癪を起こされ、夏休み中部屋を出られなかった。仕方ない。隠し事をした自分が悪いのだ、間違っていた。そうやって、自分を磔にした。机と椅子と教科書に磔された。参考書は破って捨てられた。そんなもんだ。夏とは、そんなもんだ。
天井のシミ。姿鏡。お前は、誰だ。
行きたい気持ちはもちろんある。黙って行くしかないこともわかっている。この話を聞いてしまった以上、そして自分の心がそれに拍動している以上、自分から誘うべきだ、ということも。カタカタ鳴る扇風機を見つめる。扇風機がそっぽを向く。こっちを向く前に寝てしまおう、ぎゅっと目を瞑った。

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