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井戸

私は朝が嫌いだった。
ということを、今朝思い出した。

昨夜は悪夢を見た。

――私は森の中に立っていた。深い、深い、森だった。むせ返るような緑が私を囲っていた。だというのに、香ばしいような木の匂いや、胸の内まで流してくれる小川のせせらぎは、全くもって感じられなかった。
ただ、現象として私はそこにいた。
あるいは、物語の登場人物として私はそこにいた。
都会にはたくさんの人がいるが、そこに生活感を感じないように、自然の繁茂もまた、生気を感じさせないのかもしれない。そこにあるのは凡庸の仮面を被った狂気である。
その狂気に充てられ、私はこの物語に組み込まれてしまったのかもしれない。
もう逃げられない。抜け出せない。この物語の結末に従うほかない。

しかし、局所的に見れば、その緑が匂わなかったことは私にとって救いであった。
幼い頃、自然とともに育った私にとって、自然の匂いとは生の匂いではなかった。圧倒的な死。裏山に入れば、昆虫や動物の亡骸がそこら中に落ちている。腐った土の上に「あぶない、キケン」と書かれた看板がボコボコになって棄てられている。時々出てくるヘビはまるで私が取るに足らないと言わんばかりに、悠々と目の前を通り過ぎて行った。

また、その匂いがないことは安心とともに一抹の不安を予期させた。
安心とは不安の予定調和なのである。安心は無害の中にはない。嵐の前の静けさ、と古来から言われているように、無害とは有害の前駆だからである。
私はこの思想によって逆境に耐え、生きてきた。そう思っている。そう信じるよりほかなかったのかもしれない。


森の中には、目印になるものなど何もない。
街中であれば、ちょっとあそこの赤い家まで行ってみよう、そんなことができるのだが、森にはそれはない。一つとして同じ木はないなずなのに、それが故に人を困惑させる。それが森というものなのだろう。
だからこそ。
私は自分がどこかに向かおうとしていることが恐ろしかった。
右も左も前も後ろも上も下も、何もないこの場所に、目的地があることが恐ろしかった。
やはり、この物語は不安という予定調和に向かって着実に針を進めていた。
虚ろな木肌が手招きする。自然に倒された大木から胞子がへその緒のように伸びている。
森の深くに吸い寄せられる。わからないが、何かがそこにはある。それに近づくにつれ、不安が心臓を食い破り、全身を侵蝕する。不安が噴出する血液のようにどんどんと拡がってゆく。その様はまるで生きているようで、現象としての私よりもずっと生きていた。この物語の主人公はこの不安なのかもしれない。ふとそう思った。

――少し開けた場所に出た。頭上を覆う木々が少し薄くなっていて、ほんのりと明るい。現実にこんな場所があったのなら、小鳥のさえずりすら感じていたであろう長閑さである。
しかし、物語の中に閉じ込められた私に、そんなことを感じる余地は与えられていない。許されていない。赦されていない。
ただ、不安がじわじわと私を蝕む。
そして、その不安の根源は、視界の真ん中に見えるものに違いなかった。
井戸があるのだ。
こんな誰も住まない森の奥深くに井戸があることはどう考えても異質で、しかし、だからこそ、ここが私の目的地に違いなかった。
頭上から光が当たっているはずなのに、その井戸の中には、虚ろを塗り固めたような黒が収まっている。そこだけ何かが忘れ去られたように、あるいは何かを忘れさせるように、虚無がぽっかりと口を開けて待っている。
井戸の中から不安の原色が流れ込んでくる。私は足を止めることはできない。私の主導権はもう不安が握っている。足が私を動かす。一歩。また一歩。一歩。また一歩。


――そして唐突に目が覚めた。
体の奥底にはまだ不安が残っている。そこには、あの、井戸がある。そこから流れ出した不安が私の体内をゆっくりと充満していく。登校する小学生のはしゃぐ声が、外から聞こえてくる。口の中が乾いてねばねばする。二日酔いのように後頭部が痛む。
最近この夢をよく見る。この夢を見た日、憂鬱な一日になるのは必定であった。

しかし。
目覚めなければよかった、と思うあの頃よりはずっとましだと思った。
私は朝が嫌いだった。
幼い頃の私は毎朝、失望とともに目を覚ました。
現実は、悪夢よりも悪夢的であった。
しかし、現実が酷いものであればあるほど、夜に見る夢はより華やかに、壮大に、美しくなっていった。夢は私に希望を見せてくれた。この夢が現実で、現実が夢であると思い込めば、すべてがうまくいった。
わけのわからない理由で唾を飛ばす団地の隣のおばさんも、放課後ひとりで遊ぶ私に、にやにやしながら猫なで声で話しかけるおじさんも、深夜に駐車場で爆竹を鳴らす不良かぶれたちも、団地の上の階から聞こえてくる赤子のような声も、ぜんぶ、ぜんぶ夢だと思い込んだ。
いつも、いつも何かがうるさかった。たまに静かな夜もあったが、その時には決まって裏にある深い森が、おおん、おおん、と泣いていた。

母親もうるさかった。身だしなみがどうとか、何号室のあの子はこんなだとか、だからあなたはこうしなさい、だとか。私にはそんなことはどうでもよかった。だけど、それら言うことを聞かないと、母はヒステリーをまき散らした。うるさかった。
父はその様子を黙ってみていた。それもうるさかった。森が泣くように、何もしていなくても、何もしていないから、うるさかった。
私は、お気に入りの帽子を深く被ってその騒音に耐えた。その帽子はヤンキースのロゴが入ったやつだった。野球なんて興味ないのに、その帽子をいつも被っていた。その帽子が勇気を与えてくれるから、だとかそんな三文芝居みたいな理由ではなかった。老人が杖をついて歩くように、私にとっての杖がその帽子だったのだ。とはいえ、今となってはその帽子がどこにあるかもうわからない。

止まない雨はない。
明けない夜はない。
私はそんな言葉が大嫌いだった。
雨の中はうるさくなかった。雨の中で、私は誰にも邪魔されなかった。
夜は私に夢という希望をくれた。夢の中にはうるさいものは何ひとつ出てこなかった。

底に底無し。
物体の底には底という概念はない。
その場所が底であるという唯一の定義は、底が無いことである。
「ない」は「ある」。
「ある」は「ない」。
満ち足りていることは、満たされていることではない。
満ち足りていることは、何かが不足し、その不足を把握していることである。
満足は不足。
善とは、悪の対極ではない。
善とは誰かにとっての悪であり、悪とは誰かにとっての善である。
その判断は多数決という妄信的で暴力的な価値によって為される。
そんな価値は最早善とは言わない。
善ではないものによって判断された善を、人は偽善と呼ぶ。
善とは、偽善で、もしくは悪である。

そんな私だから、この結論に辿り着くのもそう難しいことではなかった。
死ぬことは、生きることである。

あの団地から一刻も離れたくて上京した私に待っていたのは、屍のような毎日だった。
ひとりになった私は最早うるさいとは感じていなかった。
そうだ、騒音から逃げようとしたら、待っているのは静寂だった。
自分の心音さえも聞こえなかった。
死んだように生きていた。半端者の私は、神からも、死神からも嫌われているのだ、そう思っていた。
私は生きるため、どちらかに振り切るしかなかった。
生か死か。
夢の中に現実を求めたように、雨の中に平穏を求めたように、答えは明白であった。



だから、私はいま、この階段を上っている。
生まれ育った団地の階段を上っている。
この団地は私が出て行ってすぐに廃墟になった。
ざまあみろと思った。
そして、それと同時に虚しくなった。
私がこの物語の結末をつけなければならなかったのだ。それを他の人の手に渡してはいけなかったのだ。今朝の夢は、それを私に伝えに来てくれたのだ。


一段。 また一段。階段を駆け上がる。屋上への扉が見える。鍵はかかっていない。
一段、あと一段。
パッ、と広がった視界に――先客がいた。
柵の外で今にも落ちてしまいそうな少年。彼を現世にとどめているのは細く、白い左手だけだった。
私は思わず、


「あぶない……」

その言葉に少年は振り返り、ふふ、と笑った。


その少年は、ヤンキースの帽子を被った少年は、私と目を合わせたまま、左手を離した。

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