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方舟 上

少女は仄暗い小屋で目を覚ました。
ここはどこなんだろう。横になったまま部屋を見渡してみるが、調度品の類は見当たらない。
何もない。薄暗い。しかし、それほど怖さを感じないのは、扉向こうから少しの灯りが漏れ出てくるからであった。

わたしはなぜここにいるんだろう。少し考えてみるが、ここに来た理由はおろか、どうやってここに来たのか、これからどこへ行きたいと思っているのかも、ぼんやりと霞んでいる。
わたしは誰……
わからない。頭の中に霧が、自分という存在を迷子にさせる。
おおい、と呼びかけても返事をする者はなく、そうしている間に霧は濃く、自他の別を曖昧にさせる。

少し怖くなった少女は、頭まで毛布を引っ張る。途端、ふわっとおひさまの香りに包まれた。
陽だまりに零れ落ちたビー玉。そのような懐かしい気持ち。
今までの記憶もないのに懐かしいだなんて、へんなの。ふふっと笑うと、怖さはもうどこかへ通り過ぎていた。

さあて、どうしましょうか。
再び目を閉じ、思案する。
……。いいや、こんな考えても仕方がないわ。灯りがあるってことは、少なくとも誰かはいるってことでしょ。それに、こんなあったかい毛布を用意してくれる人が悪い人なわけないじゃない。
よし。少女は目をぱちりと開け、思いっきり伸びをする。そのまま毛布を折り畳んで、扉へ向かい、自分の身の丈ほどあるドアノブに手をかけ、えいっと開いた。

まず見えたのは暖炉だった。ぱちぱちと音を立て、周りを仄かに照らしている。なるほど、さっき部屋に漏れていた灯りはこれだったらしい。
火が燃える音は私たちを内省的に、懐古的に、受容的にさせる。しかし、幼子には余儀なき好奇心がそれらに先んじ、少女を暖炉のもとへ向かわせた。少女が火を覗きこむと、奇妙なことに、それは灰色に揺らいでいた。
しかし、少女にはその色がひどく懐かしく、また、胸の奥が締め付けられるようでしばらく火から目が離せなかった。

陶然としていた少女の視界の端で、なにかが動いた。
少女はびっくりして目を向ける。
うさぎだ。
白い、うさぎ。
うさぎは、同じ大きさに割られた木を両手いっぱい、器用にぴょん、ぴょんと奥の部屋へ向かっていく。
……うさぎ?薪を運んでいるのかしら。そもそも、うさぎって2本足で歩けるの?
少女が呆気に取られているうちに、うさぎは奥の部屋に薪を仕舞い、また器用に二本足で玄関へと向かっていく。
ぴょん、ぴょん、ぴょん。
少女はハッと我に返り、うさぎにここはどこなのか尋ねようとした。
しかし、時すでに遅く、ちょうど玄関の扉がばたんと音を立てて閉まった。
……しょうがない。ちょっと怖いけど、外に出てみよう。きっとお外に飼い主がいるはずだわ。うさぎを飼っている人に悪い人なんていないもの。
そうして、少女は暖炉を離れ、そうっと玄関を開けた。

「わあっ」
外は一面、灰色であった。土も、草も、小屋も、遠くに見える山々も。濃淡こそあれ、すべてが灰色だった。少女はもしやと思い、おそるおそる自分の手を見てみる。案の定、灰色だ。空を見上げる。灰色の空。しかし、そこに浮かぶ月だけは青色に、少女を見下ろしていた。

先ほどの白いうさぎが歩いていくのが見えた。こうして見ると、その兎も真っ白ではなく、少し煤けたような色だ。行く先には、まだ2匹うさぎがいた。彼らは少し黒に近いものもいれば、もうほとんど黒と言っていいくらいのうさぎもいたが、先ほどのうさぎより、色が濃かった。

そして、その中心には人影があった。人の姿に安堵した少女が声をかけようとしたのも束の間、少し違和感を覚える。よく見てみると、シルエットは確かに人の形なのだが、生気を感じない。
少女は先ほどの自分の言葉を思い出す。―うさぎを飼っている人に悪い人なんていないもの。たしかに、悪い人はいなかった。そもそも、人ではなかった。全身を覆う真っ黒なローブに、そこからはみ出す真っ白な手足。そして、顔があるはずの場所には…髑髏が載っている。そうか、白い手足に見えたのも骨か。さながら死神のようであった。
しかし、死神のようなそれは、お約束の大きな鎌の代わりに、大きな斧を持ち、せっせと薪割りにいそしんでいる。その姿がなんだか滑稽で、少女は恐怖を感じるより前に、ぷっと吹き出してしまった。
その音に死神が振り返る。こっちを向いたその顔は人の骨ではなく、うさぎのものらしかった。

「よく眠れましたか?」
穏やかな声だった。その声はあの、あたたかい毛布を想起させた。
「うん……その、毛布ありがとう」
「いえいえ、あなたがよく眠れたのなら、それでよいのですよ」
死神はにっこりと笑って言う。とはいえ、骨しかないから雰囲気で笑っているように見えるだけなんだけど。
「あなたはだあれ?」
「わたしはあなたのお世話をするものです」
「しにがみなの?」
少女の単刀直入な質問に、死神はふふと笑い、答える。
「どうなのでしょう。あなたが呼びたい名前で呼んでいいですよ」
「わかった。なら、しにがみって呼ぶことにする。……ね、ここはどこなの?」
「そうですねえ、時が来たらわかりましょう」
「わたしはだれ?」
「そうですねえ、それも時が来たら分かりましょう」
死神はほとんどのことを教えてくれなかった。
が、少女は死神といると心がゆったりとして心地よかった。
こうして死神と少女、それにうさぎ。彼らの積み木のような暮らしが始まった。

朝起きると水汲みが少女の仕事だった。
眠い目をこすりながら川まで行くと、着くころにはちょうど目が覚めている。
帰ってくると、死神とうさぎが朝ごはんを作って待っていた。
それから皆で一つのテーブルを囲み、わいわいと食事をするのだ。
会話の始まりは大抵少女からで、うさぎは言葉を話せないから、少女の言葉にキーキー騒ぐ。
その様に、死神は目を細め、笑っている。
昼ご飯を食べ終わると、少女とうさぎは一緒にお昼寝の時間。
一人と三匹は身を寄せ合って寝る。雪洞で互いを暖めあうように。
死神はその傍で暖炉の火を眺めている。
そうしているうちに、うとうとした死神は、少女の下敷きになったうさぎの呻き声で目を覚ます。
少女は王様になった夢を見ているようだ。誇らしげににやけ、うさぎを足蹴にする。
死神は少し目を細めてうさぎをやさしく助け、少女の頭を撫でてやるのだった。

7日が過ぎた。
少女がいつものように眠い目をこすりながら、水汲みに行こうと扉を開けると、赤い花が一輪、咲いていた。
「みんなきて!はやく、はやく!」
少女の少し上ずった声に、最初に現れたのは、一番白に近いうさぎだ。
うさぎは花を見て、興奮したように少女の周りを駆け回る。
続いて黒っぽいうさぎたちも現れた。彼らも走り回りはしないものの、どこか嬉しそうだ。
最後に片手にフライパンを持った死神が現れる。
「ねえ、きいて!花が咲いてるの!それにこの花、色がついてる!」
少女の嬉しげな様子に、死神は目を細める。そして何も言わずに少女の頭を撫でた。

毎朝起きると、少女は必ずその花に挨拶をした。
「おはよう、きょうもすてきな赤色ね」
いつも眠たく思っていた水汲みも楽しみになった。
その花の赤を想い目覚め、またその花の赤の為に眠りについた。
そんな少女の嬉しげな様子に、死神はその花の名前を教えてくれた。
ヒガンバナ、と。
ヒガンバナ、ヒガンバナ。少女にとって名前などはどうでもよかったが、ただそう呟くことで、自分とその花とを繋ぐ糸を段々と手繰り寄せているようで嬉しかった。
ヒガンバナ、ヒガンバナ……

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