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日と土と灰と。

荒野にて、カインは唯一人、穴を掘っている。
ここでは日が翳ることはない。沈むこともない。
従って、夜は訪れない。朝も来ない。
草木も生えない。赤日の下、渺々とした大地に動くは、カインだけである。
ざくっ、ざくっ。土を穿つ音が陽炎に消えゆく。

ある日、何もない大地に忽然と目が現れた。
ふよふよと漂うそれは、照り付ける日に瞼を思わずぎゅっと閉じる。少し経って薄く開けた視界の端に、カインがちらりと見えた。目は焦点を合わすため二、三度軽く瞼を閉じ、それからふわりとカインのもとに向かった。
そうしてカインが掘っている穴を見つけ、こう言う。
「おいおい、そんなところを掘っていては危ないじゃないか。誰かが落っこちてしまう。」
そこで、カインは穴の周りに柵を設けた。
それを見ると、目は満足そうに瞼を閉じ、そして穴の中に飛び込んだ。
カインはずっと食べ物を口にしていなかったので、穴の中で事切れた目を拾って食べた。

次に現れたのは胴体である。
生まれるや否や、ずんずんとカインのもとに歩いてきて、こう言う。
「おいおい、なんだこの柵は。もう少しでぶつかるところだったよ。君はこんな他に何にもない所に柵がいきなりあったら危ないと思わないのかね。」
そこで、カインは柵の前に注意書きを載せた看板を立てた。そうすると、胴体は満足して穴に飛び込んできた。
カインは胴体を食べ、作業に戻った。

カインの体が穴にすっぽり埋まるようになったころ、歯がやってきた。
「おいおい、掘った土をそのままにしていては危ないじゃないか。いつか崩落して君が生き埋めになってしまうよ。僕は君のために言ってるんだ。そんな僕を蔑ろにするのは良くないぞ。」
そう言われたので、カインは穴を掘るだけでなく、補強も同時に行わなければならなくなった。
また、同じように歯は穴に身を投げ、カインはそれを食べた。

目を凝らせば、穴の中にカインの体がぼんやりと映るころに、鼻がやってきた。
「そんなに穴を掘って、そこはそんなに快適なのかい?それなら僕も入りたいなあ。」
そう言われ、カインは何十年かぶりに口を開く。
「快適かどうかはわからないよ。僕はずっとここにいるから。」
「ふんっ、そんなこと言って。本当は僕にその穴の良さを教えたくないだけなんだろう?いいさ、君が何と言おうと僕だって良い思いがしたいんだ。飛び込んでやる!」
一息にそう言うと鼻は穴に飛び込んで、そのまま着地の衝撃で絶命した。
カインはいつものように鼻を食べた。

最後にやってきたのは耳である。
そのころには最早穴にカインの姿は見えなかった。
今までやってきたモノたちは自分以外にカインしかいないものだから、カインに興味を持ち、何かしら話しかけていたのだが、耳はどうも様子が違うようである。ぎらぎらとしている。まるで穴に飛び込みたくて仕方がないようだ。
現れるや否や一目散にカインのもとへやってきて、勢いそのままに穴の中へ飛び込んだ。
カインは相も変わらず、耳を食べた。


それから気が遠くなるような時が過ぎた。
久しぶりに現れたのは男である。
日と土しか見えぬ、前後不覚の静寂の中を彷徨っていた男の耳は、空虚から彼を救い出す僅かな音を聞き洩らさなかった。
そうやって男は朽ちた看板の傍にある、深い、深い穴を見つけた。
穴に近づくにつれ、男は、これは土を掘っている音だと気付く。
穴に着いたが、中はすべてを飲み込むような黒で、遠く聞こえるその音は、一望する地平線よりも遥か向こうから聞こえてくるようである。
しかし、音の出はこの穴に違いない。男は声を張り上げる。
「なぜ君は穴を掘っているんだ?」
カインは長い間穴を掘ってきて、初めてその理由を聞かれた。彼も声を張り上げる。
「僕には約束があるんだ。
アベルを救わなくてはならない。彼は悪いことをしたんだ。ひどく悪いことをしたんだ。しかし、それは僕を救うためだった。だから、今度は僕が彼を救う番だ。
皆は悪いことをしたアベルは天には昇れない、地のずっと下の奈落というところに閉じ込められるのだ、そう言う。だから僕は奈落まで穴を掘ってアベルを救うのだ。」
男は感心するとともに、しかし心配もしていた。
「独りで寂しくないかい?」
「寂しくなんてないさ。だって、みんな僕と同じように穴を掘ってるんだから。」
ぎょっとして男が顔を上げると、辺り一面穴を掘っている人で溢れている。
ざくっ、ざくっ、ざくっ。規則正しく穴を掘る音だけが鳴り響く。
ざくっ、ざくっ、ざくっ。皆が同じ顔で一心不乱に穴を掘っている。
ざくっ、ざくっ、ざくっ。穴は大地から天に無数の口を開けている。
ざくっ、ざくっ、ざくっ、どさっ。
――?不審な音に男がカインの穴を覗き込むと、その穴からついぞ止むことのなかった音が途絶えていた。


あくる日、平静を取り戻した男は、カインを弔わなければならぬと思った。
しかし、弔うにも前例がないのだからどうしてよいかわからない。
そこで男はカインがもう長らく見ていないであろう、日を捧げることにした。
自らを日に焦がし、燃え立つその身を穴に投げた。
穴は長く、男の体はどんどん燃えていく。どんどんと火が小さくなっていく。そうして最後のひとかけらになった火種がカインの死体に燃え移った。
燃えよ。燃えよ。火柱が天に昇る。
火は七日間燃え続けた。
最後の蛍火が霧散するのに呼応して、遺灰が空を舞った。
空が灰色に染まった。
灰が目に入った日は、涙を流した。
涙は地に落ち、今までカインが掘り出した土を流し、穴を埋めた。


あくる朝、穴があったところから芽が出てきた。
芽は幹となり、葉をつけた。
葉は地面に影を落とした。
葉の間から小さな花が咲いた。
そして花は双子のような実をつけた。
日と土のちょうど真ん中で輝くその赤い果実は、さくらんぼであった。

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