見出し画像

君のいのち 花束


廃ビルの屋上の縁から下を覗くと、そこには海が広がっていた。


あと一歩踏み出せば生からも滑落してしまうその場所で、彼女は透明な青を見た。
秋晴れの下、透明な青の中を、整頓されたスーツ姿が稚魚のように流されて、浮薄な自動車が小波のように跋扈していた。
それらは何かの設計図のように衡平で、共鳴し、そして正しかった。換言すれば、無慈悲で、排他的で、そして危うかった。また、それと同じことが生と死の境目に立つ彼女についても言えることを、彼女自身、自覚していた。だから私はそこに長い間囚われているのだ、そんなことを彼女は考えていた。

とはいえ、彼女は本当に足を滑らせる気はなかった。
眼下に広がるその青は蠱惑的に透明で、しかし外連は目的にすべきでないことも彼女にとって瞭然だった。彼女にとってその場所にいることは、結果でしかなかった。傍目には、命を擦り減らすことによって逆説的に生を実感しているように見えるかもしれないが、そんな盲目的な無分別の因果ではなかった。

彼女には慢性的な不安があった。それはピアスのように耳元で揺れていた。ピアスのように自らの意志で穴を開けたに違いなかったし、ピアスのように彼女を飾っていると思える時もあった。ただ唯一ピアスと違った点は、取り外しができないことだった。だから、それとうまくやっていく方法を探すしかなかった。
生活のある地点で、突然不安に襲われる。その時には何もできないように思えるけれども、とりあえず外に出てみる、ということを彼女は銘肝していた。とはいえ、容易なことではない。その時、彼女は彼女でなくなるのだから。そのため、普段から言い聞かせておくのだ。「危ういと感じたら、外に出る」これを頭の中で反芻し、エンジンをかけておく。ずっと作動音が鳴っている。疲れるけれども、きっと人生とはそんなものだ。
こうして外に出ることそれだけを目的にしておく。だから、出た後はずっと結果でしかない。その後散歩が始まるのも結果でしかなかった。途中のコンビニで好きなお菓子を買ってしまうのも、疲労困憊するまで歩いてしまうのも。
だから、その廃ビルの屋上まで行ったのも、結果だった。


珊瑚礁のように乱立した高層ビルの狭間に、秋風が吹く。黒い髪がそれに呼応する。
こんな日和に五感を閉ざしているのももったいない、とマスクをとる。久しぶりに外でマスクを外した。息を吸う。爽籟に乗って、金木犀の匂いがする。こんな屋上に、と思って下に目を遣ると、海の中にぽつんと金木犀が生えていた。それを見て、中学生の時に初めて出来た恋人の家の目の前に、金木犀が咲いていたことを思い出す。

恋人はその匂いが嫌いだった。花らしすぎる匂いだから、と言っていた。彼女も嫌いだった。その匂いは彼との時間に終わりを告げるものだったから。まだ一緒にいたい、そう金木犀の下で何度も呟いた。彼の家のドアが閉まった、そのあとで。
今ではそれを感傷とともに思い返すことができる。その感傷に何の感情も結びつかない。単に一つの追憶として屹立している。そうなったのはきっと良いことだ、言葉と共に息を吐き出す。そして、同じだけ息を吸う。秋は、透明な匂いがする。
一説によると、人は今まで生起した感情のうち最も多いものに親しみを感じるらしい。だから、同じ出来事を経験しても嬉しく思う人もいれば、悲しく思う人もいる。私の場合、それが秋なのだ。冷え切った指先も秋だし、西日に透ける髪も秋だし、落ち葉を見て私だと感じてしまう私も、秋だ。秋は私だから、私は秋を透明だと思っている。
秋、そして不安。私がピアスにしている不安は、きっと秋に感じる感傷と不可分なのだ。虚しさから来る不安。無為から来る不安。寂しさから来る不安。

しかし、私の境遇が不遇だとかそんなことは決してない。生活に困っているわけではないし、多くはないけれど友人もいる。なんだって恋人さえいる、初恋の人とずっと一緒という夢は叶わなかったけれど。今の私は幸せだ。どう考えたって幸せだ。
それでも「私がいなくなったとしても誰も泣かない」という信仰が頭から離れない。
甘えだ、と人は言うだろう。幸せを当然のように享受しているから、目の前の幸せに気付かぬのだ、と。それは確かにそうだと思う。そして可能な限り気付くような事態にならないことを願っている。

しかし、それならば。もし、平穏に甘えた私に抗弁の余地があるならば。
私が抱える不安に、あなたは耐えることができるのだろうか。一日中襲い来る不安と焦燥と寂寞に、あなたは耐えることができるのだろうか。不安のあまりペンを持つ力さえなくなったことを、どう解釈すればよいのだろうか。焦燥を諫めようとする自分と、それでも言うことを聞いてくれない肢体に、どう折り合いをつければよいのだろうか。どれだけ楽しいひとときでも、気付いたら最後寂寞に閉じ込められてしまうことを、どうすれば悔恨せずに済むのだろうか。
だから、私はこの屋上の縁から足を踏み出さない。踏み出すことは結果を求めることだから。
海が呼んでいる。詠んでいる。淀んでいる。


流行りの歌を口ずさむ。
雑多で透明な海に向け、歌う。遥か遠くへ続く水平線が、それを静かに聴いている。しかし、彼女の口から発せられた音の波は、水面を揺らさない。水面は静まり返っている。彼女の歌は誰にも届かない。聴こえていても、届くことはない。水面は陽射しにきらめいている。

「君のいのち 花束」

そんな言葉が降ってくる。突然だった。不思議だった。もう一度歌を口ずさんで「君の気持ち 晴れやか」という歌詞があったからだと気付く。
彼女は妙に気に入って何度か呟いてみる。「君のいのち 花束」
ほんとうに、花束だったら。生きることとは、この花を集めることだ。生まれた時に最初の花を渡され、嬉しいことや幸せなことがあると花はどんどん増えていく。赤、黄、青、ピンク、白……。様々な花を集めて、最期の時とはそれを自分という紙で包む瞬間だ。それぞれの花束を抱え、人は遠く旅立つ。
「君」。私は君に花をあげられているのだろうか、そんなことを思う。彼女の恋人は、優しかった。真摯で、大切にしてくれた。私はそれに値するような花をお返しできているのだろうか。

彼女は人に優しくされたことはなかった。反対に悪意を受けたこともなかった。彼女が身に受けたのは、優しさのドーナッツだった。その中心には悪意が凝固していた。だから、幸せが何かわからなかった。快と不快に実働上の差異はなかった。目下起きている事象と感情は直結しなかった。嬉しいときにはそれが消えることを恐れ、苦しいときには我慢すればいいだけだから安心した。幸せとは字面上の結果としか思えなかった。

そうだ、他人は結果についての色々の助言をくれた。散歩にでかけるよう言ってもらったのも、その一つだ。今までは延々と過程に囚われていたので、結果に辿り着けるようになったのは大きな進歩だった。だけれども、不安という過程は何も変わらなかった。それどころか遷延した。今までは一点に不安を集めていたからか、不安は周期性だった。今では不安があっても多少動けるようにはなったけれども、不安は慢性的に消えないようになった。

翻って、「私のいのち」と呟いてみる。
しかし、その後に花束、と続くのはしっくりこなかった。私のいのちという花束がどうしても想像できなかった。それは海の中の金木犀くらい奇妙な感じがした。しかし、「君」に花束をあげた以上、私にないのは不公平な気持ちがした。だから、無理矢理呟いた。

「私のいのち 花束」

すると、花束が両手に現れた。その花束は色とりどりだった。嬉しかった。
私が手にした幸せはこんなにも鮮やかだった。この花束をきっと君に見せたいと思った。
どんな顔をしてくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。あるいは、当然な顔をして微笑んでいるだろうか。花が鼻孔をくすぐる。花らしい、甘い匂い。あるいは、甘過ぎる匂い。それでよかった。それがよかった。これが嘘ではないと体現しているのだ。廃ビルの屋上のような私には、ドーナッツのように甘い匂いが似つかわしい。
しかし、よく見るとその花束は枯れかけていた。花は茎に縋り付いていた。葉には零す涙さえなかった。途端、不安が彼女を襲った。
不安はピアスのように私だった。だから、この枯れかけた花束も不安であるに違いなかった。
しなびた花は、苦しそうだった。一刻も早く水を与えるべきだと思った。

目の前に広がる海。
私がいなくなったとしても誰も泣かない。

私は大きく振りかぶり、花束を海に投げた。


海の波間に浮かぶ花束。
生みの涙に浮かぶ花束。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?