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少年は夜が怖かった。もっと正確に言えば、眠ることが怖かった。夜に寝た自分と朝起きた自分は隔たり無く繋がっているのに、世界は自分の与り知らぬところで動いているという事実が怖かった。世界に見捨てられているような気がした。自分がいなくても世界は変わらない。それならば自分はいらない存在なのかと恐怖した。


また、こんなことも考えたりした。世界が自分の存在を気に留めないのなら、それは死んでいるのと同じではないだろうか、と。太陽や月が朝昇り、夜沈むように、人の命もまた、朝現れ、夜死にを繰り返しているのだろう。そう考えることで、彼は毎朝喪失感とともに目覚める理由を得心していた。


彼はよく夢を見た。そのことは夜の怖さと相まって彼にこうも考えさせた。夢が現実で、現実が夢ではないかと。人は目覚めることを現実に帰ることと同義だとするが、それが実は現実世界に眠っているのだと言われて反駁できる人はいるのだろうか。確かに、夢の方が非論理的で荒唐無稽である。しかし、世界が整合性を保っていなければいけない合理的理由など存在しないし、そもそも夢の中で馬鹿げていると気付けることなどそうそうないではないか。
そう信じた少年は一時期夜を怯えずに済んだ。


とはいえ、この幻想が長く続くわけはない。少年は夢の非連続性と現実の連続性に気付き、自分が為したことの結果が残り続ける現実を大切にしなくてはならないとしぶしぶ認めることとなったのだ。
そうしてまた眠るという死の恐怖に怯えながら床に就くようになった。


しかし、日中にそうした怖さに襲われることはほとんどなかった。人が息災に生きている時分は死を思い浮かべないのと同じようにそういうものなのだろう。
少年は学校でうまくやっていた。休み時間は読書に費やすことが殆どだったが、友人に誘われると応じたし、気のいいやつだと思われていた。彼は胸中に持つ、陰鬱とした思いはできるだけ表沙汰にしないようにしていたし、実際周りに勘付かれることもなかった。少年はその考えが誰にも理解してもらえないであろうことは何となく分かっていた。また、もし話したとして、その考えが自分の手を離れて誰かに渡ることは彼にとって嫌悪を催すに違いないと思っていた。


しかし、彼を気にかけてくれる一人の少女がいた。
彼が夜恐怖で眠れなかった次の日の休み時間には寝ることが多かった。少女はそれを少し遠くから見やり、授業が始まる少し前にやさしく肩を叩いて起こしてくれた。
「昨日あんまり寝てないの?」
「うん、宿題が終わらなくて…」
「そうなんだ。ごめんね、起こしちゃって。」
そう言って、少女は丸い瞳で少年の目の奥を少し見つめる。
「…大丈夫?」
「…うん、大丈夫。」
少年はそう言うことで自らの安寧を保つことができた。少女の瞳にはそのような、引き込まれる何かがあった。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。」
時には少年がそう聞くこともあったが、殆どは少女の口から発せられた。
彼らは暗闇でお互いを触れて確かめ合うように、殆ど毎日言葉を交わした。

桜が向日葵になり、紅葉が次の芽を結ぼうと支度を始めたころにクラス替えの時期が来た。
クラス替えの数日前、少年がいつものように本を読んでいると、少女がやってきた。

「いつも本の帯を栞代わりにしてるでしょ。」
確かにそうだった。本の途中に挟むものなど何でもいいと思っていたので、本の帯や、メモ用紙、時には何も挟まないことすらあった。大体内容は覚えているので、そんなことをしなくとも前回の箇所から再開できるからだ。
少女はおもむろに押し花がラミネートされた栞を差し出し、
「これあげる。」
そして戸惑う少年をいつもより少しうれしそうな顔をして見つめた。
少年はありがとう、と言って受け取ったものの、嬉しさ半分戸惑い半分だ。
ちょうど始業を告げるチャイムが鳴ったので、促されるままに読んでいた本にその栞を挟んだ。
少女は満足げに自分の席に着いた。

放課後、少年は家に帰り、夕食を食べたのちふと思い出して、本を手に取る。
栞のページを開く。


そうか。


この栞によって少女のことを思い出している。夜に向かう時間帯なのに、甘い心地よさが彼を満たしていった。
そして、眠ることもこれと同じなのだと気付いた。
眠るのは私がなくなるのではなく、栞をページに挟んで閉じるだけなのだと。本を読んでいない時に栞のことを思い出してもいいし、思い出さなくてもいい。その如何に関わらず、栞はきっとそこにあるし、栞があるから安心して次のページに進めるのだ。
その日から少年は夜が怖くなくなった。


かつて少年だった青年は、今思い返すとその時の甲斐性のなさにちくりと心が痛む。
その時の栞は度重なる引っ越しでどこかにいってしまったが、相変わらず読書は好きだし、栞もちゃんと挟んでいる。

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