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ぼんやりとした不安

アパートの一室から飛び出した彼女を、彼は追わなかった。


彼は現在大学4年で、彼女とは1年の冬に付き合い始めたから、もうすぐ付き合いは3年になる。
彼らは一緒にいることが多かったので、それならばどちらかの家にずっといた方が楽だというので、どちらが言うともなしに2年位前から彼の家で同棲をするようになった。

今回の諍いの発端は、彼が晩御飯の後、食器を洗ってないだとか、いつもなら小言で済みそうな些細な出来事で始まった。いつまでたってもゲームに夢中の彼を見兼ねて、彼女が早く皿洗いしなよ、と言ったのに、彼は、はいはいと軽く受け流していた。それが彼女にとっては癇に障ることだったらしく、その後しばらく押し黙ってしまった。
少し経って彼は、彼女をとりなそうと話しかけた。当然、彼女は生返事をしただけでそれほど許す気はなさそうである。取り成そうとせっかく話しかけたのに、と少しむっとしたが、とはいえ自分が悪いのだから仕方がない。すごすごと引き下がり、様子を見ることにした。
またしばらく経ってもう一度、少し下手に出て話しかける。またも生返事である。彼は少し不機嫌になり、そんな言い方をしなくても、と不平を漏らした。
でも悪いのはあなたでしょう、彼女はそう言う。
確かに悪いが、素っ気ない物言いを受け続ける方も傷つきはする。もうそろそろ許してくれてもよくないか。彼はそう返す。
いや、許す許さないを決めるのはあなたじゃない、私でしょ。と彼女。
もうこうなると止まらない。言葉の暴力だとか、価値観の相違だとか、優先順位がどうだとか話がどんどん大きくなってくる。
また、違う話も入ってくる。
あなたはいつもそう、皿洗いにしてもなんにしても気づかない。もっと細かなことに気が使える人になって。
いや、気づく気づかないは言うべきじゃない。そもそも気づくようになれとは無いことを証明するのと似たようなもので、四六時中気を付けていたって、1秒でも気づかない時があればその人は気づかない人だと判断される。そんな馬鹿げた話があってたまるか。

そうこうしているうちに大喧嘩になってしまい、彼女は荷物をまとめて家を出て行ってしまった。もともと半同棲という形だったので、彼女には自分の家があった。しかし、2年も同棲していると彼女は自分の家に帰ることはほとんどなく、郵便も彼の家に届くように手配していたくらいだった。少し飛躍に思われるかもしれないが、彼女が荷物をまとめて帰るということはもう彼の家には来ないということであり、それは2人にとって破局に近い意味を持つことを暗に理解していた。


彼女が帰った後、彼が怒りで空虚を抑え込もうと躍起になっていると、彼女から一件のLINEが来た。
「素っ気ない言い方をしたのは悪かった、それだけは謝っておく。」

あぁ、こういうところが好きで付き合い始めたんだな、と彼は思い出す。律儀というか、自らの非はきちんと認めて謝罪をする、誠実と真摯が合わさったような優しさ。
このまっすぐさに対して自分は、どうせ別れるのならばひどい言葉を投げかけて悪印象で終わった方が相手のためだろうという独善的な考えしか浮かばないことが恨めしい。
ほんとうは心の中で分かっているのだ。
自分が悪かったことを棚に上げて反論するのは良くなかった、ごめんなさい。
しかし、そう言うことで、まだ未練があると思われたくない。いや、未練とは少し違う。ただ、相手が別れるという結果を望むのならば、それがきっとお互いにとって良いのだろうと自虐的に考える思考回路ができてしまっているのだ。
……結局はこんな思考回路ができてしまっているのもきっと誰かに縋る態度が格好悪いと思っているだけなのだろうな。その方が余程格好悪いじゃないか。

「わかった。おれもごめんな。」
数分の思案もむなしく、それだけしか送ることができなかった。
「もういいけど。」
すぐに返事が来た。きっとLINEを開いたまま待っていたのであろう彼女の姿が目に浮かぶ。そして奥深くの消え入りそうな本心は止めろというのに、その心をうす暗い独善的な観念で塗り潰す。
「そうだね。」
そう返信すると、誰かが盗みを働いているのを見てしまった時のように、心を平らにして急いでLINEを閉じる。

こういう時は無性に本が読みたくなる。家にいるときは布団に寝転がり、スマホをいじるのが常だが、今SNSに感情を動かされるのはずるいというか後ろめたい気がしてしまう。とはいえ、本を読んでもほとんど文字を追うだけになるからすぐにやめてしまうのだが。

今まで2人でいた部屋が広く感じられた、などと思うのだろうかとか考えてみるのだが、今は心が何も感じてくれない。
そういえばLINEの返信はないのだろうかと思い見てみると、先ほど送った返信に既読はついていなかった。
……なぜか安心した。付き合っているとき、彼女が課題で忙しかったりして既読がなかなかつかなかったときは不安だったが、別れた今では既読がつかないことにちょっと期待してしまう。まだ考えてくれてるのかな、と。

鬱々と考えてしまいそうだから気分を変えるため、風呂に入ろうと思う。いつも湯船につかりながら携帯でドラマを観るのだが、今はそんな気にはなれず、お湯に半分顔を埋めている。かといって彼女のことを考えるわけでもない。心が麻痺しているのだ。その代わり昔のことを思い出す。


――彼は家族に恵まれなかった。片親だとか、虐待だとかそんな目立った不幸ではなかったが、自分は愛されていないと感じて生きてきた。進路、入試、恋愛、日常生活のさまざまに至るまで彼の要望が両親に受け入れられたことは数えるほどしかなかった。一人暮らしを始めるまでの少年にとっては親の価値観を一介の見解だと断じることなどできず、それがこの世の真理だと思わざるを得なかったし、そう考えるように誘導されていたのかもしれない、と今では思う。そうして自分の要望というものは受け入れられないのだと悟った彼は、自分の居場所を無くした。自分が何を言っても許してもらえる場所はこの世には存在しないと悟った。彼はどんなに親しい友人にでさえ、気を使い、顔色を窺った。どこにいても心が休まるときはなかった。周りの人たちは彼をやさしい人だと評したが、彼の心はどこにいても早鐘のように鳴り続け、世間を疎ましくさせた。

大学に入り、一人暮らしを始め、少ししてから、心を平らにすることによって早鐘を鎮めるという術を覚えた。その頃に彼女と付き合い始めた。彼女は天性のまっすぐさで彼の過去を受け入れてくれ、そのおかげで早鐘が鳴ることはほとんどなくなった。しかし心を平らにする術は残ったままだった。感情を殺すとはよく言ったもので、彼にとって感情は抑えるものではなかった。感情自体を殺すのだ。よく彼は心の中で、1本の剣が彼を貫くさまを思い浮かべた。そうすることで心を平らにして感情をコントロールしていた。…いや、そう見せかけていただけなのだろう。死んだ感情は置き去りにされ、身体は自動操縦されていた。操縦しているのは誰なのだろう。理性か。いや、きっとそんな大層なものではない。ただの死んだ感情の残り滓だ。きっとそいつは冷たくて、人間とは程遠い、ただの生ける屍なのだ。
息が苦しい。心音が五月蠅い。息を吸うだけで、吐くことを忘れてしまう。

――苦しさから逃れるように彼は風呂から上がった。息苦しさから逃れたとはいえ、彼は早鐘から逃れることはもうできない。ただ逃げたかった。追い駆けてくる何かがいるわけではないが、ただ今すぐこの場から離れたかった。しかし彼は何からも逃れられないのを知っていた。なぜならすべての原因は彼自身にあるのだから。

こうした時に趣味などを持っておく方がいいと前に本で読んだなと思い出した。没頭できる何かを。そういったものが多ければ多いほど現実に留まる縁になるからと。
彼はそれを思い出し、自分には役立ちそうにないなと気付く。人が立って歩くためには何かに没頭することは支えとなるが、その足を掴まれ、逃れられないときには、そんなものは何の意味もない。ただ逃げ出す場所が必要なのだ。彼にはそれはなかった。

服を着て外を見る。もう朝になっていた。道行く人がやけに鮮明に見える。
空は高く、うろこ雲が河原の小石のように空を彩る。
小石を蹴りながら登校する少年。
道端に咲く一輪の赤い花。
頭上で烏が鳴いた。
自分が見えているものすべてに自分もまた見られているのだと知った。空にも、人にも、花にも。そして烏にも。彼は自分が永遠に逃げ出せないことを悟った。そして彼は彼自身から逃げ出し――6階の窓から飛び降りた。


カーテンが舞う彼の部屋に残された携帯に一通のLINEが届いた。
「こんなことで終わるなんて思わなかった。」

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