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認知症の父との思い出を綴るにあたって…

みなさんどうも!Cloverです🍀 ̖́-

今回は、認知症の父との思い出をこれからnoteに綴っていくにあたって、まずは全体の流れをお話したいと思います!

⚠︎最後の方に看取りのことなど書いてありますので、読まれる方によっては、お辛くなるかもしれません。私も実はその1人でもあります。そのような方は、そっと閉じていただけると幸いです。

私の父の人物像

私の父は、家族思いでユーモアがあって明るい性格でした✨️

いつも笑顔な父。
ダジャレや冗談を言うのが好きで、一緒に笑っていました。

そしてコミュ力おばけで、話すのが苦手な私にとっては、誰とでもハキハキと話せる父が羨ましかったのを覚えています‪💭

あと
動物大好き!子ども大好き!
食べるの飲むの大好き!絵や歌が得意!

そして多趣味!あ!これは私が引き継いでいます🫡笑

ちょっぴり几帳面すぎて頑固なところもありました…父のものはとにかく慎重に扱ったり、集中しているところに邪魔しないようにしたり🥲

そして強い父!というイメージも持っていました。弱音を吐いている姿を見たことなく、病気をしてもケロッとしているエピソードを聞いていたので😂

凄く懐かしいなぁ。。。
亡くなった人がどんな人だったのかを思い出すのっていいですね。

もしかして認知症かも…?

長年勤めていた仕事を定年退職して、他の仕事を色々していた頃、忘れ物が急に多くなりました。よく母親に電話がかかり、忘れ物を一緒に届けに行っていました。

そして、同じことを何回も言う。聞く。
父は笑って誤魔化していたけど、「あれ?」と思うようになりました。

父自身も、自分で違和感を感じたり、周りから指摘されたりして、不安だったのかと今では感じます。

やっぱり定年退職って大きかったのかな。

認知症の診断されて

小学生の私から見ても明らかに、認知症かも…?と頭をよぎっていました。
そんなこんなで、父は病院に行くことになり、若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。

日記を書くのが習慣の父が、日にちの理解が難しくなり、前のようにきっちりと書くことが出来ない。出来事を思い出せない。

ご飯を食べたのか、お風呂に入ったのか分からない。
お菓子などをキリなく食べたり、お風呂に1日何度も入ったりしていました。
食事に関しては血圧が元々高かったので、本当恐ろしかったです。

また不安が強かったのか、就寝したと思ったら起きてきてゴソゴソして眠れなさそうでした。

見ている私たちも辛い。もちろん本人も辛い。

母と私で在宅介護

診断されてしばらく、父は自立して生活していましたが、どんどん進行していくのを感じました。認知症の周辺症状が様々に現れていく。

在宅介護と言っていいのか分からないですが、母と私でサポートしていました。
私は学校に登校しているので、ほとんど母が中心でした。

でも、父は体が大きいので、体を動かすのが大変😂そういうときは母と私で協力してました。
近くに住む家族にも協力してもらったり。

私は、父の認知症を少しでも遅らせたいと、認知症について勉強してみたり、父の好きそうなジャンルの本を渡したり、塗り絵をさせようとしたりして脳を活性化させようとしたりで、必死でした。(笑)

デイサービス&ショートステイ利用

要介護認定を受け、要介護3になった父は、デイサービスやショートステイの利用を始めました。
母と私とレスパイトケアになり、救いでした。

父は、社交的で、人前で何がするのが大好きなので、デイサービスは合っていたのかなと思います。デイサービスの利用拒否も全く無かったです。

でも、デイサービスの利用者の中で1番若い。認知症の症状による行動+若いので活発に動けるので、余計に周囲の利用者の目に入る。
そして若いのに、なんでここにいるの?と思われる。
そのため、他の利用者は違和感があったのかもしれません。ちょっとしたトラブルもありました。

認知症の父 VS 思春期の私

なんかこの見出し良くないですか?(笑)

中学生や高校生の頃、私にやってきた思春期。
あまり思春期って感じでは無く、親と喋らない!とか、暴言を吐く!とか無かったのですが、とにかくイライラが止まらない、、!

何度も父から同じ質問をされてストレスがたまり泣いてしまったり、私が勉強しているのに横でチョロチョロして邪魔されてつい怒ってしまったり…

怒りが表に爆発する思春期でした。

分かっているけどイライラしちゃう。
怒りをコントロールできなかった。。

本当に父に対してごめんね。としか言えない。
そして、きっと母も大変だったと思います。


最近様子が…

若年性で、進行が早いということもあり、認知症と診断されて5、6年くらい経つと、あの頃と比べて全然違いました。

〇食事に積極的では無い。
あんなに食べるのが大好きだった父が食べない(食べれない)姿を見るのが心苦しかったです。
ふくよかだった父が、どんどんと体重が減り痩せこけている姿。
思い出すだけで辛い。

〇原因不明のことが多い、熱っぽいなど
(当時コロナが無かった時代)

微熱があることが多く心配でした。
自宅でもデイサービスでも、熱を下げるのに必死でした。

ある日、ずっとうつ伏せで寝たまま起きれず、起こそうとしても、体を触っただけで痛い!と言っていました。
どうしようもなく、入院したこともありましたが、1週間ほどで退院。
色々検査しても原因不明。
何も出来ないのが、もどかしかったです。

熱があることに対して、慎重になっておけば良かったと思っています。
でも原因不明。。

〇歩くのが難しい
歩こうとすると前かがみになり、歩幅が小さく、転けてもおかしくない歩き方。
車椅子でデイサービスに行くようになりました。

〇よく笑う父が無表情
これが一番印象に残っています。
声も出すことが減り、声を出したと思ってもカスカスの声。
そして表情がなくなりました。

いつもニコニコだった父の笑っている姿を見たいという思いでいっぱいでした。

誤嚥性肺炎

正直、ここから思い出すだけで苦しいです。
向き合いたいけど向き合えてない部分。

最近、様子が違うと思っていたのは前兆だったのかもしれません。
ご飯を食べると、喉がゴロゴロして噎せる父。

しっかり飲み込むように慎重になっていたのですが、ある日、食事中に呼吸が苦しそうになり、救急搬送されました。

幸い、なんとか助かりました。

そこで言われたのが、誤嚥性肺炎。

胃瘻を造設するかどうか、緊急に決めるように言われました。

正直、何も考えれませんでした。

看取り

入院生活になり、お見舞いに行く生活になりました。
父とは目は合うものの意思疎通が出来ませんでした。

胃瘻を造設し、延命治療をするかしないか、家族で決めることになりました。
胃瘻。延命治療。。

ここは話すと長くなるので、また今度なのですが、最終的には延命治療をしようという決断になりました。

でも、父の体力がなく、ずっと熱が高いままで、胃瘻造設ができる状態まで、回復しませんでした。

そして数週間の入院後。
母と私と父の兄弟、3人に見守られながら、
旅立ちました。

このツイートは父が亡くなってから1ヶ月後に書いたものです。↓

すぐには報告すべきか、していいのか、する気持ちになれないなど、色々葛藤し書いたものです。
高校2年生の文章なので今よりも拙い文章ですが(今も拙いですが)、このツイートはずっと大切しなければならないものが込められている気がしています。

そして現在

父が亡くなったという事実が理解してるのかしてないのか分からないまま、2018年から、ここまできました。あっという間です。
私はいつの間にか大学生。

認知症の父に対しての接し方など、もっとこうできたのではないかと後悔することもあります。
異変に気づいていれば…リスクを知り予防していれば…誤嚥性肺炎にならなかったのではないかと考えさせられます。

もし父が生きていたら、今私たち家族はどんな生活だったのかとも考えることもあります。
福祉は私にとって切っても切り離せません。


以上が、父が認知症になり、看取るまでの流れになります。

まとめるの下手すぎて、いつの間にか3000字も書いてしまった😌

この投稿を基盤に起き、父と思い出を綴って行こうと思います🙌
ではまた!

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