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2021.2.9 DULL-COLORED POP 『福島三部作』/ KAAT神奈川芸術劇場


一昨年2019年に一挙上演されていた事は知っていて、観た人の絶賛の言葉も見ていて興味はあったこの作品。

でも、当時私はいろいろな意味で怖くて観るのを躊躇していた。
なぜなら、自分の勤務先が間接的とはいえ関わりがある業界だからだ。大きな声では言えないけれど、震災翌年からの数年は業績が上がり、賞与がかなり上がった。
こんな自分が、そのお金で、この作品を観てよいものだろうかという後ろめたさ。
関わって利益を得ている(得ていた)人達を死肉に群がるハイエナどころかウジ虫のように表現されてたらどうしようという怖さ。

今回、TPAM(国際舞台芸術ミーティングin横浜2021)にて再演という話を知り、やはり躊躇もあったけれど、作品紹介やインタビューで谷賢一さんの御尊父が《原発で働く技術者》だという事を知り、観てみようと決めた。

笑いの中に痛烈な毒を吐いていた『マクベス』。コロナ下で通常の演劇ができない自分の胸の内を一人芝居で身体を張って(精神的にも肉体的にも/笑)表現した『アンチフィクション』。
この2作でガツンとやられたので、観たあとメンタルがボロボロになる覚悟もしながら……。

第一部『1961年:夜に昇る太陽』
1961年。 東京の大学に通う青年・<穂積 孝>は故郷である福島県双葉町へ帰ろうとしていた。 「もう町へは帰らない」と告げるために。 北へ向かう汽車の中で孝は謎の<先生>と出会う。 「日本はこれからどんどん良くなる」、 そう語る先生の言葉に孝は共感するが、 家族は誰も孝の考えを理解してくれない。 そんな中、 彼ら一家の知らぬ背景で、 町には大きなうねりが押し寄せていた――。 福島県双葉町の住民たちが原発誘致を決定するまでの数日間を描き出したシリーズ第一弾

「原子力発電と原爆はちがう」
「原子力発電は未来の発電システム」
私は再処理工場がある六ケ所村・東通原発がある青森県出身なので、多分関東出身の人達よりもこの言葉をよく聞いて育ったと思う。テレビでも原燃のCMが流れていたし、小学校では交通事故防止の標語募集と同じくらいの頻度で原子力エネルギーに対しての標語募集があったと記憶している。
なので、この第一部は福島の話でありながら、自分の生まれ育った県で起こっていた事の追体験でもあった。

「東北のチベット」とまで言われ、㏊あたり500円にもならない土地を2000万円超(現在価値にして3憶円)で買い取りたいという提案に加え、東電と県と町長の「原発ができれば仙台と同じくらい都会になる」「工場ができる」「働く場所ができて出稼ぎに行かなくてもよくなる」という甘い言葉。

以前NHKかなにかで原発誘致前の下北半島に暮らす人々の映像をみたことがある。建物や着ているものはボロボロで、白黒補正を抜きにしても生活の厳しさが伝わってきた。
高度成長期の渦に取り残された、産業もなく貧しい田舎の町の人々がその甘言に乗ってしまったことを罪だと責めることは私にはできない。

きっと谷さんもそうなのだろう。
ラストの政治家と<先生>(東電)のシーンに谷さんの“怒り”が集約されていたように思った。

プロローグに登場した防護服に身を包み、実家に一時帰宅していた人物がだれかがエピローグで判明する。人形として登場していた三男の真と、第一部の主人公だった孝の恋人で第二部の主人公になる忠の妻・ミヤ。
物語は第二部へと続く。

感想を文章にすると、観ていない人はヘビーで重苦しく堅苦しい作品のように感じられるかもしれないけれど、とても見やすい作品。
序盤の大げさにも感じられるセリフの応酬は新劇、村の子供たちの場面では人形を用いてアングラ劇風にコミカル+シュールに、そして大人たちの話し合いの場面は直球の会話劇と、絶妙な匙加減の演出に2時間あっという間だった。

そして1時間15分を挟み

第二部『1986年:メビウスの輪』
福島第一原発が建設・稼働し、 15年が経過した1985年の双葉町。 かつて原発反対派のリーダーとして活動したために議席を失った<穂積 忠>(<孝>の弟)の下に、 ある晩2人の男が現れ、 説得を始める。 「町長選挙に出馬してくれないか、 ただし『原発賛成派』として―」。 そして1986年、 チェルノブイリでは人類未曾有の原発事故が起きようとしていた。 実在した町長・岩本忠夫氏の人生に取材し、 原発立地自治体の抱える苦悩と歪んだ欲望を描き出すシリーズ第二弾。

第二部の語り部は積家の犬・モモ。物語は今日死ぬというモモのエピローグで始まる。
モモの目からは原発は白いお豆腐。正体は何なのかはわからないけれど、これが出来てから人がいっぱい出入するようになった白いお豆腐。
そしてモモが死んだ夜、
「原発反対派だからこそ、危険を正すことができる。それができるのはあなたしかいない」
と主人公の穂積忠に町長選に出馬をするよう説得する二人の男。
家業である酒屋は東電がお得意様。
息子は父親が原発反対派ということで学校で孤立していたせいか親父の言動に反発していたし、2人の娘の夫はどちらも東電に勤務している。
そういうこともあり表立っては反原発の旗を降ろしていた忠。
気持ちは反原発、でも家族のことを考えれば……。
そんなやさしさと正義感につけ込むように、甘い言葉で忠を持ち上げる二人の男は県議会議員と別の県議会議員の秘書。
彼らの本音は「反原発だからこそ、東電に物申して追加工事で金を引っ張ってくることができる」。

原発マネーはデカい。
ちなみに青森県で一番財政豊かな市町村は、県庁所在地の青森市でも私の出身地である八戸市でもなく、六ケ所村だ。(二位は原発がある東通村。八戸市は三位)

私事になるけれど、子供のころ下北半島を両親とドライブしたことがある。その時通った六ケ所村は超田舎なのに、八戸と同じくらい立派な施設が建っていて、また寂れた風景になり、そしてまた立派な建物が現れるというある意味で奇妙さがあった。確かPR施設のようなものがあり見学したはず。それがチェルノブイリの前だったか後だったかは記憶が定かではないけれど、明るい雰囲気で安全だとアピールしているのに、模型で展示されていた黄色のドラム缶と放射能マークがやたらと不気味に見えたのを覚えている。

話が逸れてしまったので、作品に戻す。

台詞としてはなかったけれど「奴は操りやす」かったんだろう。
チェルノブイリの事故をうけて記者会見に臨む前の町長室での場面。
原発を一度止める決断をしようとする忠に、「止めると町の財政は破綻する。覚悟はあるのか」と議員秘書の吉岡が追い詰める。所々歌舞伎調になったりとコミカルなのが余計にゾッとさせられた。
モモの魂は忠のそばにいて、負のメビウスの輪の中でもがいている忠に必死で声をかけるのだけれど死者であるモモの声は彼には聞こえず。

開演前に流れていたRCサクセションの「サマータイム・ブルース」は舞台後半の記者会見シーンでも使われる。
清志郎風メイクをし「日本の原子力は安全です」と虚ろな笑顔で歌う。
ナンセンスな絵面だけれど、その馬鹿馬鹿しさが強烈な風刺となる。

会見を終え自宅に帰宅する忠。その表情は虚ろで虚無。
その姿を見かねたのか、それともチェルノブイリ以降考えが変わったのか、息子が「あんなに原発反対だったのに、なぜあんなことを言ったのか」と詰め寄る(この息子の心変わりは謎)。
魂として忠の近くにいたモモも「本当に思っていることを言って!」と懇願する。
家族にだけでも本心を吐露するかと思われたその瞬間、娘の夫が息せき切って駆け込んできて娘の妊娠を伝える。
「日本の原発は安全です」
これで本心を口にする機会は失われてしまった。永遠に―。

モモの「生者には死者たちの声は届かないのですか?」という問いかけが切なく、やるせない気持ちのまま第二部は終了。

谷さんはインタビューで「真向から反対して対話する人がいないので、亡くなったモモの視点からでないと対立する構図の演劇がうまれない」というようなことを語っていた。
犬耳をつけて鼻先を黒く塗ったモモ役の百花亜希さんの姿は写真で見たときは奇妙だと思ったけれど、実際舞台を観て、劇中の人物には聞こえないモモの言葉に耳を傾けた後だと、その姿すら尊い。

ただ、モモの言葉に共感したにも関わらず、「あなたは原発に反対ですか賛成ですか」と問われたら「どちらとも言えない」(もしくは「どちらかといえば反対」)と答えると思う。自国で東海村臨界事故やもんじゅのナトリウム漏洩事故、そして福島原発という事故が起こったことを知っているのに。

原発よりコントロールしやすいとはいえ、火力もCO2を出す。自然エネルギーの水力も太陽光も、都市の発電を担うような大規模なものだと森林や地域の環境を犠牲にする。
都会に住み、電気を使った生活を享受している自分はどちらにせよ地方の町村を犠牲にするのではないか? そんな私に反原発(新たに作るのは反対だが)と声高に叫ぶ権利はあるのか……。
結局、私は疑問を抱きつつも直接的な被害がなければ“なあなあ”にして日常を過ごすのだろう。健康診断の数値が良くないのにお酒やごはんが止められないように。

そしてそれは第三部でさらに突きつけられるのだけれど。


第三部『2011年:語られたがる言葉たち』
2011年3月11日、東北全体を襲った震災は巨大津波を引き起こし、福島原発をメルトダウンに追い込んだ。その年末、<孝>と<忠>の弟にあたる<穂積 真>は、地元テレビ局の報道局長として特番製作を指揮していたが、各市町村ごとに全く異なる震災の悲鳴が舞い込み続け、現場には混乱が生じていた。真実を伝えることがマスコミの使命か? ならば今、伝えるべき真実とは一体何か? 被災者の数だけ存在する「真実」を前に、特番スタッフの間で意見が衝突する。そして真は、ある重大な決断を下す……。
2年半に渡る取材の中で聞き取った数多の「語られたがる言葉たち」を紡ぎ合わせ、震災の真実を問うシリーズ最終章。

第三部は東日本大震災のあった2011年3月11日14時46分より少し前から始まる。舞台上のあちこちで雑談している人たち。
そこに突然鳴り響く緊急地震速報。地震と津波の轟音に、点滅する光、悲鳴や怒号や津波を警告するアナウンサーの声。
ステージ前に設置されたスピーカーからの大音量のせいで客席の床も実際に震え、芝居とわかっていても身がすくむ。
そして、亡くなった人々の「死にたくなかった」という声・声・声。
第二部では小さかった死者の声は悲痛な叫びとなり私たちに訴えかける。

私の会社でも身内を亡くした人がいたし、自分も震災から数年経った女川の町で陸に打ち上げられた船や、高台以外は更地のようになっている土地、大きな瓦礫は片づけられていたけれど道の脇には生活の細々したものの残骸がたくさん残っていたのを目にしていたので、胸が締め付けられた。

場面は変わり、テレビ局の社内会議に。
福島の人たちに寄り添い「生きる自信と誇りを取り戻す」取材を望む地元テレビ局の報道局長・穂積真と視聴率が取れる絵が欲しいスタッフの間の対立は福島とそれ以外の地域の温度差であり、カメラが捉える同じ県民でありながら対立し言い争う様は県民の分断の縮図。
この第三部は前二作と比べて、笑いどころも芝居がかったデフォルメもない。
真面目に現実逃避し、真面目に不安を抱え、真面目に怒り、真面目に訴える人たちにテレビ局のスタッフだけでなく観客も向き合うことになる。
彼らの言葉は直球で、心を揺さぶる。
ただ、この作品の凄さはそれだけじゃない。
「真面目な報道と資本主義の相性は悪い。真面目な報道と民主主義との相性も悪い」
と、問題提起する広い視野。
第三部での「語られたがる言葉たち」に耳を傾けてみて、東京にいる自分はいかにそれらの言葉をモノとして消費していたのかを突きつけれた思いがした。
いや、当事者ではない自分は今でも上っ面の表面だけの理解かもしれない。
ただ、忘れないようにしたい。


今回の『福島三部作』再演。
最初に「躊躇していた」と書いたけれど、結果としては観に行ってよかった。
(発売日を失念していて配信で観ようと思っていたけれど、追加発売でチケットを手にすることができたのは本当にラッキー)
私のようにシアターゴアーではない、月に片手で足りる観劇回数の身でも、この作品の凄さは理解できた。
とくに脚本は後世にも残ると思うし、もしかしたら演出次第では「Fukushima Trilogy」として世界にも通用するかもしれないと思う。

一人で観劇したい派だけど、この作品に関しては終わったあと語りながら帰る人が心底うらやましかったよ。
無性にこの作品について語りたくて、久々にnoteを開いたくらい。
長文すぎておそらくほどんど読まれないだろうけど。

もし最後まで読んでくれた方がいらっしゃったら、本当にありがとうございます。


P.S.
これを書いている最中、福島で震度6強の地震がおきました。
関東の我が家は震度4でありながら停電し、ランタンの明かりの中で書いてました。暗いのは怖い。
そしてその心細さも相まって、ラジオから流れる福島原発やほかの原発の情報は本当なのか?とも思ってしまいました。夜があけて被害状況が明らかになったら「実は…」なんてことがないことを祈ります。
ちなみに停電から3時間半後の深夜3時過ぎに電気は復旧しました。
深夜にも関わらず復旧作業に尽力してくれた人たちを思うと、会社全体を絶対悪として糾弾できないんだよなぁ……。

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