最後の乗客


静かな田舎町にある古びた駅には、奇妙な噂があった。深夜になると、最後の電車に乗ると戻ってこられないというのだ。しかし、その噂を信じる者は少なかった。

ある雨の夜、仕事で疲れ果てたサラリーマンの田中健一は、終電に間に合うように駅に駆け込んだ。ホームには誰もいない。雨音だけが響く中、田中はホッと一息ついてベンチに腰を下ろした。

ふと、田中の目に一冊の古いノートが映った。駅の片隅のベンチに、誰も触れることのない様子で置かれている。興味本位で手に取ってみると、表紙には薄れかけた文字で「最後の乗客へ」と書かれていた。

「何だこれ?」田中は不思議に思いながらページをめくった。しかし、中は空白のままだった。

電車が到着し、田中はノートをベンチに戻して乗り込んだ。車内は無人だった。彼は一番後ろの席に座り、窓の外を眺めた。電車が動き出すと、田中は疲れからかうとうとし始めた。

ふと目を覚ますと、隣の席に見知らぬ男が座っていた。黒いスーツに身を包み、顔色は青白い。田中はぎょっとして「いつの間に…」と心の中で思ったが、声をかけるのをためらった。

男は田中に気づくと、にやりと笑いかけた。田中は背筋が凍るような寒気を感じ、目を逸らした。しかし、その瞬間、男が話しかけてきた。

「あなた、この駅の噂を知っているかい?」

田中は首を振り、無言で応じた。男は静かに話を続けた。

「この電車に乗った者は、二度と戻れない。そういう話さ。」

田中は不安を感じつつも、男の話を無視しようとした。しかし、男はさらに言葉を重ねた。

「この駅で降りることはできない。ずっと、永遠にね。」

その言葉を聞いた瞬間、田中は立ち上がり、車内を見渡した。しかし、ドアは閉ざされ、車内には出口が見当たらなかった。パニックに陥った田中は、叫びながらドアを叩いた。

すると、電車が急停止し、車内の灯りが消えた。暗闇の中、田中は冷や汗をかきながら男の方を振り返った。男の姿は消えていた。

その時、田中の耳元で囁く声が聞こえた。「逃げられないよ。」

次の瞬間、電車が再び動き出し、田中は必死にドアを開けようと試みたが、全てのドアは固く閉ざされていた。彼の心臓は激しく鼓動し、恐怖に包まれた。

電車が次の駅に到着した時、田中はようやくドアが開くのを感じた。彼はすぐに飛び出し、駅のプラットフォームに転げ落ちた。しかし、見上げた先には見慣れた景色が広がっていた。

「ここは…同じ駅…」

田中は茫然と立ち尽くした。再び駅のホームに戻されていたのだ。彼の背後で電車のドアが閉まり、電車は再び闇の中へと消えていった。

その後、田中は行方不明となり、彼を見た者はいなかった。駅の噂はさらに広がり、深夜に最後の電車に乗ることを恐れる者が増えた。

田舎の古びた駅には、今も静かな雨音が響いている。その駅のベンチには、誰も触れることのない古いノートが置かれている。その表紙には、薄れかけた文字でこう書かれていた。

「最後の乗客へ」

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