アングレカム

 その人は毎年、雪解けのころになると村に訪れる旅人だった。村人の言い伝えではずっとずっと、それこそもう数えるのも嫌になるほどずっと前から、その旅人はこの村へと訪れていたとお父さんが言っていた。
 あたしが覚えているのは五歳ぐらいのころかな、お姉ちゃんと一緒に屋根へと積もっていた雪下ろしをしていたとき。旅人さんは谷間の底にあったあたしたちの村へと、二匹の狐をともなって訪れた。
 見たことない服装の人がいるって思った。だって村のひとたちと全然ちがう格好だったし、髪の毛も見たことない。けれど、村長のおじいさんとは知り合いだったみたいで、お互いを名前で呼びあってて変なふうに見えた。
 旅人さんが村長と話してるあいだ、二匹の狐はずっとじゃれあってて遊んでた。あたし、それが気になって雪下ろしさぼって近づいたら、旅人さん、あたしに気づいたのかこっち見たんだ。そして、驚いた顔して固まったのをよく覚えてる。あたしの顔、だれかにそっくりなんだって。
 旅人さんは村長のおうちに数日ほど住むことになった。それから旅人さんが離れるまでの間に、村の周辺には春が訪れていた。村の人たちが言うにはあの旅人さんが春を招いているって面白半分で言ってたけど、どうにもずっとずっと前からそんなことが起きてるから、もう噂どころか迷信、ううん、伝統みたいなものになってる。あの旅人は「春に愛されし人」なんだって。
 その日から数日は村のお祭りだった。春が来たらこれからの恵みに歌と踊りを捧げ、これまでの辛さをご先祖たちの試練として感謝を唄う。それでも死んじゃうのは嫌だなって、あたし、お母さんのお墓の前で思った。お祭りで騒いでるところから離れて、ひとりお墓に腰掛けてた。
 旅人さんと初めて話したのはそのときだった。祭りから離れていくあたしを見かけてどうしたのかなって思ったんだって。そうだよね、他の子たちはみんな騒いでるし食べてるし遊んでるし、ひとりだけっておかしい。でも、あたしはここにいたかった。お母さんが好きだったし、会えなくなってもここに来たら会える気がしたから。
 そう言ったら旅人さん、にっこりわらって頭を撫でてくれた。大きくてごつごつした手のひらだった。旅人さんも同じだって言ってた。誰かと会いたいからずっとずっと旅を続けてるって。いつか会えるのその人と、と聞いたらいつだって会えてるし、いつだって一緒なんだって言われた。あたしはどういう意味かわからず、うーんってなっちゃった。でも、お母さんに会いたいあたしと一緒なのかなって、思った。だって旅人さん、悲しそうに笑っていたから、あの笑顔、お父さんもお姉ちゃんもよくしてる。
 祭りの喧騒が鎮まるまでのあいだ、あたしは旅人さんにつきまとった。狐二匹と追いかけっこしたり、遊んだりして仲良くなったし、旅人さんの名前だって教えてもらった。代わりにあたしの名前を言ったら、また驚いて固まってた。なんでだろう。なんでって聞いたら、よく似ているからだって。誰にだろう。
 祭りが鎮まり、旅人さん、ううんビクターが村を離れることになった。村長のおじいさんはなんだかすごく悲しそうに別れを惜しんでた。ほかにも年のいった人たちはみんな、ビクターとの別れを惜しむようにでも笑ってた。あたしや村のこどもたちはみんな笑顔だったよ。だってビクターみんなと遊んでくれた。いろんなお話もしてくれたし、また会いたいなって思ったから。だからあたしは、アーリィはまた会えるからってばいばい!って大きく手を振ったの。ビクターも狐ちゃんたちもこっちをずっとずっと見ながら、村から見えなくなるまで手を振り返してくれてた。

 それが初めてビクターと出会ったときのこと。

 それから十年近くが過ぎていった。あの年からビクターは村に訪れなくなっていた。村の人に聞いても、みんな首をかしげるだけでわからないみたい。そのせいかどうか分からないけれど、村に訪れる春がどんどん遅くなってきてると村長さんが言っていた。冬が長引いてる、皆がそう思った。
 そうして春の訪れがずれこみいまだ寒い日の朝、あたしはおかしなことに気づいた。目が覚めてあたたかい水で朝の支度をしてるとき、音が聞こえないことに。円を描くように建てられた室内を見回す、棚や床に置かれた調度品たちがかたかたと揺れている。いや揺れてる音は聞こえない。
 部屋からでて声をだす、おねえちゃん、お父さん、と。でも声が響かない。どうして、なんでだろうと思って二人を探す。この時間なら、まだ家の近くにいるはずだからと思って、家の玄関へとお父さんが見たこともない顔をして飛び込んできた。けれど聞こえない、お父さんが何を言ってるのか。そこで私はようやく、ようやく気づいた。聞こえないんじゃない。全部、轟音にかき消されてるんだって。

 その日、ひとつの村が、大雪崩に襲われた。谷底に村はあり、近くには高い山がそびえる状況、そして訪れない春によって雪は厚く厚く積み重なり、ささいなきっかけで崩れた雪の層は、人も動物も植物も一切合切の生存を許さぬと言わんばかりに飲み込んでいった。

 なにが起きたのかわからなかった。けれど覚えてるのはお父さんのぬくもり。頭を覆うように抱きしめられ、耳元にはっきりと言葉が聞こえた。

「いきのびてくれ」

 聞こえた言葉に、何かを言おうとしたときにはもう真っ白だった。ゆっくり、ゆっくりと家の壁が崩れていき、白い悪魔があたしたちに襲いかかる。動こうとしても動けない、ただただ白い悪魔に流されていく。息苦しさと寒さに襲われ、そのうちあたしは何も考えれなくなって、目をとじた。

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。あたしは気がつくとやわらかい毛布に包まれて、焚き火のそばで寝かされていた。痛む体に顔をしかめながら、体を起こそうとすると顔を舐められた。狐だ。わっとなって狐を見れば、どこか見覚えがあった。相手もまるでこっちを知ってるかのようにぺろぺろしてくるし、ぐりぐりと体をすりよせてきた。あたたかい。でもどうして、あたしはここにいるの。その答えは、枯れ木が連なるなかを歩いてくる足音にあった。

「だれ……?」

 思わず毛布を抱きしめ、燃える木の棒をてにとった。けれど、狐はなにも警戒する様子がない。むしろ足音のほうへと嬉しそうな声をあげて近づいていく。暗がりのなか、焚き火のあかりに照らされた姿にあたしは見覚えがあった。

「ビクター、なの?」
「その呼び方をするってことは……オレの知り合いか。
 いや、この付近ならばあの村の?」

 村のだれとも違う髪と姿をした人物がそこにいた。足元にはもう一匹の狐をともないながら、大きな銃を担いで焚き火のそばへと歩いてくる。彼はあたしと一緒にいた狐へと、こしをかがめて撫でながら言う。

「クーラ、ちゃんとお守りできたようだな。よしよし。
 ってトーレ、ばか腰にぶつかってくるな、お前もちゃんと仕事したから。よーしよし」

 二匹の狐から楽しそうにじゃれつかれながら、彼は笑って撫でていた。それもつかのま、すぐに視線はあたしに向いた。

「あんたは、この付近でひとりで倒れてたんだ。意識をうしなって。
 オレはこの先にある村へと向かうところだったんだが、
 なにがあったか、聞いても大丈夫か?」

 銃や荷物をおろした彼は、適当な石に腰掛けあたしに問う。あたしは、わからない、ううん、白い悪魔が襲ってきたとしか言えなかった。

「白い悪魔、白い悪魔……そうか雪崩か。
 オレが行ってたころは一度も起きたことなかったのに、
 なんで今……まさか、冬が長引いたのか」

 彼はハッとなった顔で雪山を見た。視線を追いかければ、そこには夜の闇で見えない雪山があるように見えた。あたしには、何も見えない。

「………………そうか、オレが来なかったから、ずれたんだ」

 見えない雪山を見上げたまま、彼はぽつりと言った。

 村では見たことのないテントのようなもので一晩すごした翌朝、あたしは彼らと一緒に村へと向かった。けれどそこには。

「なにも、ない……みんなの家も、あたしの、家も。
 おとうさーん!おねえちゃーん!返事を、返事をしてえええ」

 あたしは必死に声を張り上げた、何度も何度も。でも返事はなかった。どこまでも村だった場所は静かで、いつまでも静かで。まるで全てがお墓のように静かだった。みんな眠ってしまった、この白い悪魔のしたで。
 おかあさんのお墓も、どこにあるか、わからない。おかあさんの葬式からずっと流したことのなかった涙がこぼれおちていく。
 白い地面に膝をついていると肩にそっと狐が頭をのせてきた、あたたかい。なぐさめてくれてるのかな。だから撫でてあげた、もっと涙がこぼれおちてく、止まらない。それからずっとあたしは泣いた、泣き止むまで狐は離れないでくれたし、ビクターたちもそばにいた。

「……もう、平気か」
「うん、弔いもできた。あたし、アーリィ、ひとりになったけど、
 生きてく。ちゃんと生きるすべは教わってるから」
「……ひとりは、寂しいぞ」
「でも、あたしは、ここしか知らない。
 ここ以外を知らないから」
「……だったらオレの知りあいたちがいる場所に行かないか。
 そこならここよりもあたたかいし、
 きっと君といてくれる人もいる」
「ビクター……泣いてるの?」

 涙のあとが見えた。あたしよりずっと年上なひとなのに、あたしよりずっと強そうなのに、そのほほには、涙のあとがあった。

「ああ、泣くよ。どれだけ経っても誰かが亡くなるのは苦しい。
 あの村長とは長い付き合いだったし、
 村の子たちとは……何度も遊んだからさ」

 彼は数日かけて掘り起こして、遺体を埋めた墓の前に座った。一緒に手を合わせた。向こうでも笑顔でいれるようにと願いを込めて。あたしは気になったことがあって口を開いた。

「ビクターどうして村に来なくなったの」

 その言葉にビクターは、すぐに口を開こうとしなかった。何かを考えるような間があいたあと、言う。

「亡霊が、出やがったのさ。
 その亡霊の後始末をオレはしてたんだ」

 彼は銃を強く握りしめていた。横顔はひどく強張っていて、とてもこわかった。でも、同時にひどく悲しそうにも見えた。その横顔を、もう一匹の狐が舐める。

「うわっと、トーレなに……いやそうだな、もう終わった話だ。
 いつまでも、引きずることじゃない」

 彼は立ち上がると、私に向き直る。

「それでだ、アーリィで合ってたか。
 たしかお墓の前にいた子、だったよな。
 覚えてるよ、祭りのときに話したのを」

 先ほどまでのこわさはなかった。優しそうに笑う顔。でもどこか寂しそうなその顔に、あたしは惹かれていた。

「覚えてるの?もうずっと前のことなのに」
「覚えてるさ、オレは。
 いろんなことを忘れないでいるよう、
 ずっとずっと覚えておくつもりなんだ」

 長い髪と髭を揺らしながら、彼は笑った。

「一番大事なことは、絶対に忘れない。
 そう思って生きてる」
「一番大事なことって、なに?」
「それは言えないな。なにせ一番大事だから」

 彼は軽く笑い流して目元のゴーグルを付け直し、村の外へと歩き出す。

「さあ、行くぞアーリィ。
 村の外がどんなところかは行く道中で教えよう。
 そしてどうすればいいかは、そのときだ」
「うん、わかった……みんな、さようなら」

 数日かけて作った皆のお墓に挨拶をしたあと、あたしは旅の支度を用意してビクターと一緒に村の外へと出た。生まれてから十数年出たことがなかった村の外、村のみんなを失ってしまったことへの悲しみは、不思議なことにあまり感じなかった。もう涙といっしょに流してしまったから?それともビクターやクーラにトーレがいてくれるから?わからない。
 わからないから、そっとビクターの手のひらを握ろうとした。拒みはされなかったから、そのまま握った。あの頃と変わらず、大きくてごつごつしてあたたかい手のひらだった。あのときも思っていたことがある、ビクターのこと大好きだって。その気持ち、いまでも一緒なんだって思う。

 村の外をでても白い悪魔はそこら中にあった。降り注ぐ姿も変わらず。あたしたちは何度も足止めをくらって、洞穴やテントなどでやりすごしていった。その時間のなかでビクターからたくさんの話を聞いた。クーラを抱き枕にしながら、焚き火を囲んで話を聞くのは楽しかった。吹雪のない日は夜空の星を見上げて、星座のことを聞いたりもした。時にはあの星には行ったことがあるなんて聞いて、びっくりしちゃった。どうやって行ったのと聞いても、ビクターは曖昧な顔をして言ってくれなかったけれど。

 そんな日がどれだけ続いたのだろう。ビクターは毎日手帳を開いていたみたいだからきっとわかると思って、あたしはその日先に寝てしまったビクターを見て、トーレとクーラにも静かにしててと注意をしてから、彼の手帳を開いた。そこに書いてあったのは。

『アイリィ、何度だって会いにいく。
 何度だってオレの名を呼んでくれ、レウイと』

 手帳にある一番最初のページ、色あせてボロボロになってるけど、でも捨てないで持っている古い手帳。そこに書かれていた言葉には日付があった、村で聞いていたねんごうというものが確かなら、それは……

「なにをしている」

 考えにふけってたせいで気づかなかった。ビクターが起きていたことに。でも彼は怒ってはいなかった。ただ、見られてしまったなと言いながら、あたしがもっていた古い手帳を優しくとりあげた。

「ねえビクター、そこに書いてあったのって」
「オレの一番大事なこと、だよアーリィ」
「アイリィってだれ、あたしと似た名前だけど」
「名前だけじゃない、小さいころはそっくりだったさ」
「その人に?」
「ああ」

 じゃあ今はそうじゃないということ?でもそれはどういうことなんだろう。それにレウイという名前、ビクターじゃないの?あたしのなかにいろんな疑問がいくつも生まれていった。クーラが顔を舐めてくる、一緒に寝ようって。見ればビクターは手帳を荷物の奥底にいれて、荷物を抱くようにトーレと寝てしまった。あれではもう手が出せない。

「ビクターは、いつからビクターなの?」

 こぼれた声は、届いてない。あたまに浮かぶのはねんごうの古さ、それは数百年も前だということ。アイリィってだれなんだろう、あたしとそっくりってことは女の人だよね。どうしてビクターと一緒にいないんだろう。
 それからしばらくの日々は考えることばかりだった。そのせいでビクターともなんだか距離ができた。クーラはずっとそばにいてくれたけれど、聞いていいことなのか、だめなのかわからず、あたしは胸がなんだか苦しくなっていった。
 雪道を黙ってあるくことが増えた。ビクターもなんだかあたしとどうしたらいいかわからないみたい。ときどきトーレとクーラが苛立ったように、ビクターの腰へとぶつかりにいく。二人にも気を使わせてるのがわかって、あたしは決めた。

「ビクター、こっち向いて」
「……アーリィ、どうした」
「どうしたも何も、わかってるでしょ。
 あの手帳を見てから、ずっとこうだよ。
 あたし、どうしたらいいかずっと考えてた」

 ざくざくと歩いてビクターに近づく。大きい。村の誰よりも大きかったビクター。いまのあたしでも胸のあたりがやっとだ。

「教えて、ビクター
 アイリィって誰、どうしてビクターと一緒にいないの」

 その言葉に、彼は目を伏せた。何も言わず。

「答えて、ビクター
 あたしそれがずっと気になってるの。
 だって村に来てたときのビクターはいつだって一人だった、
 村のだれに聞いてもビクターはいつも一人で来てたって」

 クーラとトーレは耳をぺたりとさせて地面に座ってる。

「あたし、あたしなら、一緒にいるよ。
 おかあさんがいなくて寂しいって気持ち、
 わかるよと言ってくれたビクターの隣に。
 ねえ、ビクターあたし、一緒にいたい」

 小さいころの思い出、そして初恋だったのかなと思う。でもそれは初恋のままじゃなかった、ずっとあたしの胸の中で眠ってた。だからもう一度会えた今をあたしは、手放したくなかった。年齢だって十分こどもを産めるころあいだ、村の女の子たちとは誰と一緒になるかって話をよくしていた。あたしは、ビクターがいいと思ってた、ずっと、そして今も。

「………………アーリィ、ごめんな。その気持ちには応えられない」

 ビクターはこっちを見てない。

「ビクター、どうして。
 だってあの手帳、ずっと古いねんごうだった。
 それは、ずっとずっとビクターがひとりだったことになる。
 そんなの、そんなの寂しい」

 涙がこぼれてきた、ビクターのことなのに、あたしまで苦しい。どうしてなのかわからない。

「あたしと一緒に暮らそう。
 そしたらビクター、ひとりじゃない。
 こどもだってできるし、増えてく。
 みんな、ビクターといてくれる」

 あたしはビクターの服を掴んで、言った。涙も止まらない。この人をひとりにしたくない、ちがう、あたしがひとりになりたくないからだ。わがままだ、あたしの。おかあさんがいなくなったときの寂しさとはちがう、これからずっと一人でいることの寂しさに、あたしが耐えれないから、そう思ってるだけ。でも、ビクターの寂しさがわかってしまったから、言わずにはいられなかった。

「だれもそばにいない寂しさ、今ならあたしわかる。
 これからずっとずっと、こんな寂しいまま生きてたくない。
 だからビクター」

 あたしと一緒になってと言おうとした。そのとき、腰になにかがぶつかってきた。なんだろうと思って見ればクーラだ。クーラの目は、とてもとても悲しそうな顔をしていた、それ以上はやめてほしいと言わんばかりに。

「アーリィ、それは、できない。
 できないんだ……そんなことをしたら、
 アイリィがひとりぼっちになっちまう。
 それだけは、オレはしたくないんだ」

 ビクターは泣いていた。嗚咽をあげながら、とても大人の男とは思えない声の震えとともに言葉を言う。彼はあたしから距離をとって、背中を見せる。

「……この先をもう少し行けば、大きな街がある。
 そこにオレの知り合いがいるから、街の孤児院へ行くんだ。
 クーラ……悪い、アーリィといてやってくれ」

 そう言うと彼は、今まで歩いてきた道とは別の方向へと向かいだす。あたしが止めようとすれば、クーラが足元につきまとって邪魔をしてくる。

「クーラ、離して!どうして邪魔するの。
 クーラたちだって、ビクターをひとりにしたくない、
 わかるでしょ」

 振りほどこうとすればのしかかって倒された。倒れた視線のさき、ビクターはこちらを振り向かず歩いていく。トーレはそのそばを歩きながら、こちらを振り向いてひとつ鳴いた。クーラも応じるように鳴いて、一人と一匹はどんどん離れていく。

「ビクターお願い、行かないで!
 あたし、ひとりはいや!ビクターと一緒にいたい!
 ビクタァァァァァァァ」

 そう叫んださき、ふとビクターのうしろに誰かが見えた。それは銀色の髪をした少女、ビクターに触れようとして触れられず、それでこちらを見ながら泣いていた。泣いてビクターを何度も何度も叩いてるようでもあり、抱きしめようともしてるようだった。彼は、そのことに一切気づくことはないまま、あたしの前から立ち去っていった。

 そうして、あたしの初恋は、終わった。

 いまはクーラと一緒にたどりついた街で過ごしている。見たこともない街と服装、そして人々にずいぶん戸惑ったけれど、孤児院のひとたちは優しくしてくれた。先にビクターから連絡が入っていたのか、街についたあたしをすぐに見つけてくれた年配の女性は笑って言う。

「みんな、あいつのことを好きになるけど、あいつは一途なんだ。
 だから失恋したんだなってすぐにぴーんときたよ」

 平然といわれてあたしは最初びっくりした。なんでわかるのだろうって。

「さあねえ、どうしてか不思議な男さ。
 おばさんも若い頃は熱をあげたけれど、
 すぐに気づいたよ」

 女性は窓の外を見上げる。

「住んでる世界が、見てる相手が違うんだってことに」

 言われてみれば、ビクターはあたしを見てなかった気がする。でも、それでもよかった。一緒にいてくれるなら。あたしのわがままでも、一緒にいてくれるならそれでよかった。

「なぁに、ほかにもいい男はいるから!
 アーリィちゃんならすぐに見つかるよ、おばさんにだっているんだから」

 そう言って元気づけようとしてくれる声は嬉しかった。でも、あたしはきっと忘れない。ビクターに恋したことを。ビクターが好きだったこの気持ちを。そう思って、あたしは新しい自分の部屋に一輪の花をかざった。
 名前はアングレカム。花言葉は「いつまでもあなたと一緒」だ。


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