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第9章 N養護学校(院内学級)

皆さんは、『院内学級』というところについて、ご存じだろうか。学校に籍を置く為に、それまで通っていた地元の小学校を形式的に転校し、退院時にまた戻る為に転入手続きをする必要がある…などの細かい話はさておいてーーー

大きく、午前と午後に授業がある。朝食を食べ終えると休憩したり、軽く身支度をしたのち、同級生らとともにN養護学校まで通う。“通う”と言っても、徒歩1分ほどだ。子どもの足でも、徒歩3分…といったところだろうか。               クラスに着いて、朝礼をし、途中、休憩を挟みながら午前の授業を終えると、昼食を摂る為に一度病棟に戻る。昼食後、再び院内学級にて授業再開、概ね15時30分には授業は終わる。「学校」が終わると、病棟に「帰宅」し、自由時間を経て18時頃に夕食、また自由時間があり、就寝は21時頃だった気がする。(この辺りは少し記憶が薄い)       つまり、病院は「家」であり、看護婦さん(※)は「母親」であり、病棟の仲間は「兄弟姉妹」なのである。

授業には、もちろんクラブ等もあり、養護学校に特化していると感じたところが何点かあった。ひとつめは、クラブの内容がとても豊富であるということ。ふたつめは中・高学年のみに限定されているのではなく、低学年の子どもたちもクラブ活動へは参加していたことだ。
クラブの内容がいかに豊富であったか、というところであるが、実は筆者はこの辺りの記憶はあまり鮮明ではない。ただ、私が担任教諭から最初に説明を受けた時に、すごく数が多かったのは覚えている。
ちなみに、私は『レザークラフト部』というクラブ活動を選択した。地元の小学校では手芸クラブに在籍し、手芸一択の私が当時何故これを選んだのか。

それは忘れもしない。クラブ活動を担任のF先生と見学していた。当時の心境は今でもよく覚えている。これから先に待ち受ける入院生活と学校生活への不安から、何とか立っているだけで精一杯の私は、不安で今にも泣きそうだった。何個目かのクラブ見学を終えて入室したその部屋の先に、“エミちゃん”が居たから。ただ、それだけだ。

今ではレザークラフトと云うものはそんなに珍しいものではないのかもしれないが、当時の1989年頃はあまりメジャーな活動ではなかったのではないかと思う。

その当時、レザークラフトというものを見たことも聞いたこともない、普通の10歳の女の子であった。そんな私が、レザークラフトをクラブ活動に選んで本当に良かった、と後々になっても思う。それほど、レザークラフトは楽しく、皆でワイワイ言いながら木槌で皮を叩き、一つの作品を仕上げる。作品を作る楽しみも勿論であるが、それ以上に“ワイワイすること”を地元の小学校でして来なかった私にとって、それは本当に楽しく、宝物のような記憶であり思い出となった。話が少し逸れるが、私が25歳の時、一度レザークラフトを習いに通った。今ではもう、打てないけれど。

エミちゃんには、どちらが“お姉ちゃん”なのか分からないほど、精神的に支えてもらい、レザークラフトへも出逢わせてくれて、その他にも沢山の素敵な思い出が私の宝物になっている。今は亡きエミちゃん(当時7歳)には、心から感謝している。

(※)当時の呼称で、記載している。

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【写真】姉と一緒に。同じ遊具で遊んでいても、身体を動かす姉とは対照的に、じっとしていることが多かった(笑)左が私。




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