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第3章 キタとミナミ

私の生まれは大阪市北区、俗に“キタ”と呼ばれている地域だ。大阪市でも特に、“キタ”と“ミナミ”(通称)に分けられる。“キタ”が大阪駅・北新地を中心とする大人の遊び場を基盤とする一方、“ミナミ”は難波・道頓堀界隈の若者のそれを指す。歴史を辿れば、その呼び名のルーツは江戸時代にまで遡り、“キタ”地区には当時沢山の遊郭で賑わい、大阪城下の北端に位置したことから、「北の遊里」「北の新地」と呼ばれたという。これに対して“ミナミ”のルーツは1615年に完成した道頓堀の南側に芝居小屋が立ち並ぶようになると、次第に「南地」「ミナミ」と略して呼ばれるようになったそうである。

話しを元に戻そう。とにかく私は大阪市北区、“キタ”の中でも最も賑やかな地域と言っても過言ではない下町に、二人姉妹の次女として誕生した。その街では年に一度“天神祭”という大きな祭りで賑わう。元々人通りの多い商店街が、この時は虫が這うような速度でしか歩けないほどの、盛況ぶりとなる。

前章で話したように筆者は生まれた時から身体が弱かった。一言で言えば、「ヤバいやつ」だ。後に判明するが、記憶にある限りでも、3、4歳の時には精神疾患と思しき症状が出始めた。人の輪の中に入るのが苦手で、大きい声や音にも拒絶反応を示し、その様な場に遭遇すると体が硬直し、立っていられないほどの立ちくらみや眩暈を体感する。これを繰り返していく中で、いわゆる「広場不安症」の出来上がり、というわけだ。

そんな身体(精神)の弱い私と、決して強くはない姉(但し精神疾患はない)であったが、共働きの両親のもと無事に育つことができたのは、大家族の中、“真綿に包むように”育てられたからである。これについては善し悪しで、後の人格形成に大きな影響を及ぼしていくこととなるが、その話はまたの機会に書くつもりにしている。

人数構成は次の通り。(母方の)祖父母、伯父(母の兄)とその妻、両親、姉と私、だ。この8人が、ひとつ屋根の下で暮らしていた。

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【写真】                   大阪市北区の実家にて。姉と並んで。(左が筆者)

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