見出し画像

第8章 楽しい嬉しい国立療養所

その後も、日々いろんなことがありながらも、過ごしていった。O病院入退院から一年後、1989年1月6日のことだ。私は今でもこの日付を忘れない。前年末に決まっていた京都の国立療養所U病院(当時)に入院した日だ。不安障害による体調不良を、当時は身体問題だと捉えられ、検査入院して詳細を調べる、というのがこの入院の目的であった。主に脳波や心電図を取ったり、細々とした検査をしたのを覚えている。

このタイトルを見た読者の皆さんはきっと、驚かれたに違いない。入院が楽しいのか、とーーー                      答えは“YES”だ。日々、K先生に見えないところで受けるイジメが少しずつエスカレートしていた私の学校生活は、理由をつけては休みたいほど、精神的にも追い詰められていた。その中での入院生活。もちろん、前年のO病院での入院時と同様、最初は泣いてばかり居た。しかし、そこに、わずか7歳の救世主が現れることになる。名前はエミちゃん。女の子。ハキハキと喋る賑やかな子であった。私が月なら、彼女は太陽。陰と陽の関係だ。

3月18日に退院するまで、2ヶ月弱という長期入院…と云えば大袈裟に聞こえるかもしれないが、前年の2回の入院でさえ、1回数週間の入院生活であったこともあり、今回の入院について最初は、ひどく長いものに思えた。前年のO病院では、勉強は専用に雇われた家庭教師のような方が病室で教えてくれた。しかし今回は違った。N養護学校(※)という、病院併設の院内学級で、日中過ごすこととなる。

「院内学級ってなに?」「養護学校ってなに?」 ーーーどうしてそんなところに行かなくちゃいけないの?

1月6日に入院した、ということは前述したばかりであるが、この日のことを30数年経った今でも私の頭の中に、その情景が残っている。到着したのは午後、であったかーーー病室で簡単に荷物の整理を終え、母と私は座っていた。突然襲ってくる動悸。予期不安。死ぬかもしれないと思うほどの、音で表すとドッキンドッキン、少しずつ高鳴ってくる。

……ーーーどこまでいくの?コワいよ!おかあさん、どうしよう。おかあさんがもうすぐかえったら。ここにいて、もしまたアレがおそってきたら。だれもたすけてくれないの?ーーー……

母は、この日、食事を作るためにおそらく夕方には帰宅するつもりであったのだろう。しかし、私は周りに気を遣う余裕もなく、きっと眉間に皺を寄せて、固まっていたに違いない。母はただそばに寄り添って、午後8時くらいまでいてくれた。そして私はまた思った。「ああ、おかあさんにまた心配をかけてしまった」このように、出口のないトンネルの中を、堂々巡りするのである。

思えば、もっと早く、精神科に受診するべきであった。この時は、誰もーーーそう、自分でさえもそんなこととは露知らず、問題が解け薬物・認知療法により症状が改善へと進むのは、つい3年ほど前のことである。

しかし私は特記しておきたい。この症状と共存し続けた数十年の間、コレがなければ経験することのなかった苦痛や周りへの迷惑もあっただろう。しかし、やはり私は時々思うのだ。

“この症状があって、良かった”、と・・・

この症状のお蔭で、私は国立療養所U病院へ入院することができた。そして、あのような素晴らしい出会いの数々を経験し、ただ健康に育つことのできた他の人は経験し得なかったたくさんのことを学び、楽しみ、笑うことができたのだ、とーーー

余談であるが、入院から二晩経ち、1989年1月8日の朝。ベッドの隣りの机の上を見ると、母からの手紙があった。

「かおちゃん。おはよう。よくねむれたかな?今日から学校だね。なにかこまったことがあれば、かんごふさんにすぐ言いなさいよ。みんな、かおちゃんのことをたすけてくれるからね。」

きっと、母が看護婦さん(※)に頼んで、夜の間に手紙を置いてもらったのに違いない。私はあれから30年以上も経った今になっても、時々思うのだ。お母さん、ごめんね。心配かけて、と。。。

 ※当時の呼称で書いている。

画像1

【写真】小学校4年当時。姉の友達と一緒に。私は友達はほとんど居なかったが、姉はたくさんのお友達に囲まれていた。そして姉の友達には大変可愛がられて、よく遊んでもらった。姉と姉の友達には、とても感謝している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?