塩水浴の日
ネイルサロンの帰りに決まって立ち寄る店がある。
月に一度、ネイルを削って落としてもらい、爪をととのえ、ジェルを新しく施してもらうのがわたしのルーチンのひとつだ。いくつかお決まりのその中には、髪を切ってトリートメントと丁寧なヘッドマッサージを施されることなどが含まれる。自分の体のケアを自分以外の人に任せる。
それらはおそらく、別居の義母などから言わせれば「贅沢」であり「無駄なこと」なのかもしれない。ひとつ年下の夫は、義母のそういったわたしへのちょっとした非難をさらさらと流してしまう人である。よかった。だからこそ、わたしは彼を愛しているし、無二の存在だと思っている。そもそも義母は寿命の順番でいけばわたしより先に逝く人だ。逝くのを待って鬱々としているより「彼女にどう思われようと、そのうち先にいなくなっちゃうんだし」と思えば、どうでもよくなってしまう。
「今日はどうしますか?」
同じ世代くらいのネイリストと、最近観た映画やドラマ、読んだ本、「推し」の俳優やアーティストなどの話をする。推しは、下手をすれば自分の子供くらいの年齢の男の子たちだったりする。
わたしは子供を産んだことがないからわからないが、あんなにきれいな子が自分の子供ならばさぞ幸福だろうな、と映画や舞台で彼らを観るたびに思う。十代二十代の男女の無敵感に加えて、生来美しいというのはどんな気分だろう。
きらきらした鱗粉みたいなものを振りまいている彼らを、わたしは「きれいだな」と眺めることができる。恋愛とか性欲などをそこに持ち込むことがなくなった。年を経るのは悪いことじゃない。最近つくづく感じる。他の人、異性はどうかはわからないが、わたしはそれらを「推し」から切り離すことができた。病で子宮を全摘出したからだろうか。ただただ、きれいなものとして見ていられる。手の届かない光をながめては、いたく満足し、日常に戻る。そう考えると日常は、きらきらしたものに支えられている。
「いい色でしょう。お勤め先によってはダメな人もいるんだけど、私はこの色が好きです」
ネイリストさんがトップジェルをのせながら楽しそうにいう。濃いめの赤むらさきのうえに、銀色の偏光ラメを重ねる。光を受けて、五本の爪先が全部違う色に見える。魔法みたいだ。
自分の爪は、仕事をしているときに常に目にするから、わたしはこまめにネイルサロンに通う。
本来なら近ごろ老いを帯びてきた顔面のほうに注力すべきかもしれないが、顔は鏡がなければ自分自身は目にすることがあまりない部品なのだ。
しかし指は、爪は毎日自分の視野に入る。なら、きれいなほうが自分はうれしい。幸い、おつとめではあるけれど在宅勤務だし、個人事業主の委託契約である。わたしがどんな化粧をし、どんな髪色を選んでもいいのだ。爪に関しては、文句をつけられる人間は急病で運び込まれた際に、酸素量が計測できずジェルネイルに苦労する医療従事者くらいだと思う。義母が会うたびにわたしの爪や髪に対して何かというのは様式美で、別に根本から否定しているわけでもないのをわたしは知っている。
翌月の予約をして、ネイルサロンを出る。天気は薄曇りで、シミが気になる年齢のわたしには「とてもよい天気」だ。きれいにしてもらった爪を眺めながら、商店街を歩いていく。
大通りのはずれにある、味噌専門店に行く。毎月、お米と味噌は専門店でちょっとずつ買うのだ。それがわたしのたのしみだ。味噌は試食もさせてもらえる。つまようじにちょっと取った味噌を口に含んで転がす。しょっぱいだけでなく、豆の甘味がある。ちゃんとしょっぱくて、ちょっと甘めの信州白味噌をわたしと夫も気に入っている。いくつかほかの味噌を試したこともあるが、結局、根菜に合うその味噌に戻ってしまう。夫はちょっと生っぽい大根の味噌汁が好きなのだ。
味噌屋の店頭に立ち、わたしは樽に入った味噌たちを眺める。味噌のいい匂いがたちのぼる。どの子にしようかな。たまには赤味噌にしようか? 考えながら、店主にいつもの味噌を500グラム頼む。1キロ買ってもいいが、新鮮なまま使い切って買い足す方がいい。
はいよ、と威勢のよい返事がきて、店主はしゃもじでささっと味噌をすくい、計る。ビニールにいれられ、紙にくるまれた味噌を受け取るとき、店主がふと言った。
「つめ、きれいですねえ!」
ありがとう、そうでしょう。とわたしは笑い、代金を支払って店をあとにした。
金魚に塩水浴をさせると元気になる。
わたしにとって、爪をいろどるのはそれに似たようなことなのだ。
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