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(2020/09/27追記)(ネタバレあり)新しい映画の旅:劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン

涙腺に対する攻撃力はTVシリーズのほうが強くて、私は今日は泣かなかったのですが、見に行く前に懸念していた問題はなく、純粋に「良かった」と言える内容でした。

免責事項:この記事はネタバレについての考慮を行いません

言いましたからね!

TL;DR

・手紙も電話も良いよねと言ってくれてありがとう
・蛇足じゃなくて良かった
・「完結編」でも良かったんじゃない?

手紙という伝達手段の行く末

外伝で初めて描かれた要素に「技術の発展」がありました。ベネディクトが配達先のおばあちゃんと電波塔を見ながら話をするシーンが2度、電話も少し登場しました。

2020年に生きる私達は、手紙とタイプライターが隆盛を誇った時代のあとに、技術が進歩するとどうなるかを知っています。今や1人1台くらいは持っている板状の機械で、文字情報を即座に渡すことが、通話することが、なんだったら顔を見て話す事もできるようになっています。郵便業自体は廃れていませんが、遠くの人とのコミュニケーションの主流は手紙ではなくなりました。私は企業や官公庁からの機械的なダイレクトメール以外で、久しく手紙のやりとりをしていません。年賀状さえ、出さなくなって10年ほど経っています。皆さんはどうでしょうか、たぶん大きくは違わないですよね?

ヴァイオレット・エヴァーガーデンの舞台は架空の世界なので、現実の歴史との整合性は考えなくて良いはずです。ならば、外伝でわざわざ「これから手紙が廃れる原因となるもの」という話を出す必要はなく、出したのは何らかの意図をもっての事ではないか、と思いました。ただ、外伝の話の中ではそれはわかりませんでした。むしろ、若い見習い郵便配達人が登場し、手紙を届けるという仕事が廃れる気配は見せませんでした。しかし、その要素がそのままで、時代遅れになって行くことを仄めかされただけになるのは、少し消化不良になりそうだなと思っていました。

劇場版の最初のシーンは、ヴァイオレットたちの時代から60-70年くらい後の、10話で登場した「50年間母からの手紙を受け取り続けた娘」アンの葬式です。識字率が向上し、電話は各家庭に普及している時代。自動手記人形(ドール)という職業は、過去に存在したものとして語られます。

劇場版では要所要所にこの未来のシーンが挿入され、アンの孫娘デイジーが、「母からの手紙」を代筆したドールの足跡をたどるという外枠を構成しています。ヴァイオレットたちの物語と美しく重なるその終点で、デイジーは手紙の力を理解し、仕事で忙しく、コミュニケーションがうまく取れていない両親に向けて、手紙を書く――未来の物語はここで終わります。時代が変わって、ドールという職業がなくなっても、手紙の持つ力は消えない、という事を描いているのです。

また、本編では、ヴァイオレットがギルベルトに会いに行っている時に、中断していた代筆の依頼元の少年ユリスが危篤に陥り、代筆ができないという状況になりました。しかしユリスは、まだ珍しかった電話で、手紙を書きたかった相手である親友と最期に会話をすることができたのです。手紙に替わってコミュニケーションの主流となる電話の可能性をとても肯定的に描いています。

つまり、新しいコミュニケーション手段の可能性も、手紙の普遍的な力も、両方良いものである、と、しっかり語りきっているのです。外伝での描写も、劇場版まで見ると、伏線として機能していた事がわかります。これに私はとても安心して、スッキリしました。

「蛇足の物語」ではなく、「迎えに行く話」だった

TVシリーズは、ヴァイオレットが、ギルベルト少佐を喪失した事を知り、しかし、周囲の人々に支えられて、自分の人生を歩き始める、という話(7-9話)が物語のピークだったと思っています。TVシリーズ完結時点で、既にヴァイオレットは自分の人生を歩いているのです。

劇場版のあらすじなどの情報は(ネタバレに配慮してくださるTLの皆さんのおかげで)入っていない状態で見ることとなりましたが、ギルベルトの死亡確認はTVシリーズでも外伝でもされておらず、生存が判明する流れになる可能性は高いと思っていました。しかし、ヴァイオレットはもう自分の人生を歩き始めている。せっかく壁を乗り越えた話を混ぜっ返す事にならないか、それは物語としては蛇足になるのではないか、濁るのではないか。見る前にはそういう心配がありました。

実際、ギルベルトは生きていました。偽名を名乗っていましたが、記憶を失っていたわけではありませんでした。ではなぜ姿を現さなかったのか――あとから振り返るとここがポイントだったと思います。

ギルベルトは、戦争で多くの人を殺めた事を悔い、ヴァイオレットを人として接しようと決めていたにも関わらず結局武器として使ってしまっていた事を悔いていて、会う資格がないと思っていました。成長し、自分の心を操れるようになり、自分の人生を歩き始めていたヴァイオレットと対象的に、ギルベルトは、表面的にはちゃんとしていても、戦争が落とした心の陰から、抜け出せていなかったのです。

心情を語る尺は、劇場版を通してヴァイオレットよりもギルベルトのほうが長く感じるくらいで、視点によってはギルベルトが主人公とも取れる描写が続きました。劇場版は、ギルベルトが日向に出てくる話であり、ヴァイオレットは、これまでの物語で獲得した心の力で、ギルベルトを日向に連れ出す、迎えに来る役割を持っていたのだと理解しました。物理的にはヴァイオレットがギルベルトのいる島に移住するので、「迎えに来る」だとおかしいんですけど、心の動きはそうなんじゃないかなと思います。

もちろん、手紙はそのツールとして力を発揮しました。ヴァイオレットが、自分で手紙を書き、最愛の人に渡す。ドールの最後の仕事として、これ以上きれいな締め方がありましょうか。ヴァイオレットの中の話から、外の話に切り替わったこの劇場版を、私は蛇足だとは思いませんでした。「完結編」と名を付けていても良かったと思います。

2020/09/27追記分:成長を破棄した成長譚

強烈に不満を述べるブログ記事を読んで、自分も残念に感じた点も書き残そうと思いました。

劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンで残念に思うのは、最後の海岸で主人公が退行してしまった事で、成長譚なのに成長を放棄している事。「主人公にとって少佐との時間は別離の時から止まっていた」のだろうけど。

それは明白に、しつこいほど意図的にそう描かれている。言葉の仕事をさんざんやってきたヴァイオレットがまともに言葉を発せなくなるし、わざわざ劇中で「訓練して動かせるようになった」と明言している義手を、そのシーンでは動かせないという演出まで入れてある。

意図通りの表現は見事になされているし、ここまでの成長があるからこそ、その退行表現を強烈に感じる。けど、主人公の挫折と成長(7-9話)に最も心を打たれた身としてはここは残念に思っていて、ちゃんと少佐に、「成長した自分」を叩きつけてほしかった、思いを言葉にしてほしかったなあ。


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