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私の「呪い」が解けたとき

つい先日、30歳になった。

意識していなかったといえば嘘になるが、あっさりと30代を迎えた。私は社会人8年目、現在4社目の会社で働いている。

仲間内で書いてみよう!ということになり、このテーマに筆を執ってはみたものの、今回のテーマである「 #私らしいはたらき方 」という言葉を見て、戸惑う自分がそこにはいた。
今の自分を表す適切な形容が思いつかない。これまでならスラスラと思いついていた「シナリオ」「筋書き」が、頭の中にない状態だ。

自分史上、いまが一番「私らしく」働けているはず、なのに。
なぜだろう。

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それは私の「呪い」が解けたからだったのではないか。
そんなことを、今日は書いていこうと思う。

私が私にかけた「呪い」

これまでの私は「理不尽を糧に」「間違っているものには抗う」というアナーキー(?)な行動を取りつつ、結局のところ「全ては筋書き通りだった」と言わんばかりに「置かれた場所が結局のところ正解だったんだ」と息巻いていた。
その結果として、不安定に七転八倒しながら失敗とメンブレと自己肯定を(やや躁鬱気味に)繰り返していた。

その結果、3回の転職と退職。今振り返れば、辛いことのほうが遥かに多かったけど(これは精神的にも身体的にも、という意味で)いいことも悪いことも、たくさん経験できた時間だった。

この過程で、私はまるで誰かに言い訳をするかのように、たくさんの「後からストーリー作り」「自己肯定」を行ってきた。例えば、上記の記事で言えばこのあたり。

仲間との紐帯や情緒的評価が重視される会社と、成果が重視される会社、どちらも経験することによって、「自分に水があう」組織への解像度が上がりました。定量的かつ皆が共有できる評価基準の枠組みがある会社、あるいはプロフェッショナルが集まる職人気質の会社の方が働きやすいのではないか、と個人的に求める会社が明確化したんです。

こうやって、自分へのラベルを順当に貼り重ねていった。

人の幸せを阻む要因として「こうあるべき」という強迫観念もすごく大きいなと感じていて。そんな強迫観念に苦しむ人を少しでも減らしていきたいと思っています。私の周りにも、「仕事をしていないと人として失格」とか「結婚しないと負け組」といった呪縛を自分にかけてしまっている人が結構います。そんな人に「こんな考え方もありかも」と思ってもらえるような存在でありたいですね。本人が呪縛に気づくサポートをし、それと向き合うなり手放すなりすることで、少しでも心地よく生きられる一助になれれば良いなと思います。

記事の中ではハッピーエンドで締めくくられているものの、「こうあるべき」という強迫観念ーーーこれは、まさに自分自身にかけていた呪縛だったのだ。

私の「呪い」が解けたとき

そんななか、私は今年4月に心機一転、現職に入社を果たした。結果として、これまで纏っていた雰囲気から、自分自身も変わったと実感している(周囲からも「柔らかくなったね」と言われる機会が増えた)。
「環境が人を変える」とは、言い得て妙である。

正直なところ、入社したての私は、かなりビクビクしながら毎日を過ごしていた。新しい環境への不安、仲間への不安、職種への不安もあった。

「嫌われたらどうしよう」
「怒られるのではないか」
「クビになるのではないか」
「必要ないと言われるのではないか」
「筋書き通りの物語を構築できないのではないか」

やっていることや成果とは一切関係なく、そういう不安を常に抱えながら過ごした。そんな不安を、周囲の柔らかい関わりのなかで、徐々に解いていくのに数カ月を要した。

(「本質的でない、取り合うべくもない悩みだ」と言われればそれまでだ、そんなことは分かっている。しかし、それでもなお去来する思いだったこともまた事実だ)

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誰かの活躍を、見捨てず期待している人がいること、相談できる人がいること、成果(も勿論大事だけど!)だけではなく「在り方」を大事にする人と働けること。そういうことによって、次第に心に潤いを取り戻していった。

そして、その結果だろうか、
仕事に関することを考える時間は増えたけど、ストレスはむしろ軽減した。
助けを求めている人の言葉にも、素直に応じられるようになった。
そして何より、無理なときには断ることが出来るようになってきた。

(これまでの人生のなかで「断る」ことが最も苦手だった。膨らんだ期待値に応えることが出来ず、後から苦しむのは自分である、とも分かっているのに。声を出す勇気がなかったところから、案外伝えると受け取ってもらえる、ということを学んだのもこの時期だった)

そんな不思議な生活が始まってからは、なぜか男女関係も、友人関係も、問題だらけだった家族関係ですら、少しずつ落ち着いていった。

(やっぱりきっと、私にとっては、全ての物事のトリガーは、やっぱりどこまで行っても「仕事」だったのだろうと思う。これまでの経験を通しても、例えば男女交際がうまくいっていても、仕事がうまくいっていないと、結果として全体が曇った心象風景になってしまっていたことからも明らかだ)

そういう日常の些細なやり取りを通じて、<支配/被支配>の二元論的な眼差しから、自分自身の心が少しずつ抜け出していった。
それにより自分もまた、誰かの「在り方」をただ受け止めるような…少し距離は遠いかもしれないけど、見えるか見えないかくらいのところから、介入することなく、お互いを素敵だと思えるよな…そんな関係を作ることを、どんな間柄においても、意識するようになった。

穏やかな風が吹いているようなーーーそんな心象風景で、世界を、人を、仕事を、捉えているような心持ちに、少しずつなれている気がする。

(勿論仕事に大変なことがないわけではないが、それすら穏やかな気持ちで受け止められているように感じる)

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今だったらーーーかつての自分になんと声をかけるだろうか。
きっと、

「常に選んだ道を(即座に)正解にしなきゃいけないわけじゃないよ。」
「正しいか間違っているかの判断は一旦保留にしてもいいんだよ。」
「日常のなかにある小さな優しさに着目できるようになるといいね。」

そんな言葉をかけるんじゃないかと思う。私を救うことが出来るのもまた、自分自身である、ということを知ったからだ。

そうやって、私は私の「呪い」が解けたのを見届けた。

*

【最後にこれだけは言いたい】「人生は、仮説検証だ。」

と、ここまで唐突な自分語りが続いてしまいましたが、キャリアに悩む、まさに「#私らしいはたらき方」に悩んでいる人に、ひとつ、どうしても伝えたいことがあります。

それは、「人生は仮説検証である」という考え方です。

ファクトを積み重ねる。自己の解釈を内省し咀嚼する。成功失敗にこだわるのではなく、その要因となる仮説を立て、より良い未来に生かしていく。

そういうことの積み重ねだと思います。

自分に対して厳しくするのでもなく、優しくするのでもなく、成功失敗の結論を急がず、断定せず、ただ淡々とニュートラルな立場を取ること。
その分、起きてしまったことや結果は引き受け、その原因や、結果として生まれた、種となるファクトを摘み取って、重ねていくこと。
淡々と仮説検証を繰り返し、過去への後悔ではなく、未来を見て、未来のために生きること。

そのことこそが、「自分自身にラベルを貼らない」行為であり、究極の「#私らしいはたらき方」の輪郭を作っていくのではないでしょうか。

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おしまい。

UXコンサル、BtoBマーケ、人事を経てコミュニケーションマネージャー(広報、マーケ、採用広報、組織開発)なう。 書くこと:パン偏愛、可愛いもの布教、働くこと、生きること、1日1考、新サービス考察、旅行、読書録、銭湯、恋愛。 頂いたサポートは、もれなくパンの研究に使われます。