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好きはどろどろに溶ける #推しとか好きとか

最近お休みしていた文章がようやく書けそうなコンディションになってきたので再開していこうと思う。
ここから数本は「推し」と「好き」について考えながら、いくつかの文章を書いていくことにする。今回は1回目。テーマは「好きって何?」と題し、「好きであるという状態」について考えていく。

「好き」ってなんだろう。そういえば最近、私は「好き」と言っただろうか。あるいは、そんな感情を持っただろうか。あるとしたら、何故?

「推し活」に励むキャラだと思われがちだからだろうか、誰かに「好き」なものは?と聞かれることがたまに、否、結構ある。
そんなとき、私は「そうだねえ、好きかぁ…パンとサンリオと銭湯とカレーとイコラブちゃんと…あと最近はウマ娘が推せる!トウカイテイオーがほんとに良い。テニプリ?うん!もちろん好きだよ、柳蓮二と真田弦一郎と鳳長太ry」などと答えることになる(性質上、あえて口には出さないが、例えば同棲中の同居人も「好き」の部類に入るだろう)。

これらについて考えてみると、いずれも対象「物」としてではなく、「概念」に近いのかもしれない。
物理的な充足感というよりは、日常的にその概念に触れるだけで、「好きなものに触れている」という事実によって心が満たされる。
例えば私の部屋のなかにはサンリオグッズやパングッズがたくさんあるが、「物理的に存在する」ことが嬉しかったり楽しかったりウキウキするというよりは、「その概念が近くにある」ことによるじんわりとした幸せをほんのりと感じているような気がする。

しかし、だからといって日常的に口に出して「これが好き!」と言ったり(この場合は「推し」という言葉が適切かもしれないが:この問いについては次回以降扱う。例えば上記の例も「好き」と「推し」はニュアンスが違い、分類可能なことに書きながら気付いたがそれは次回のテーマに回す。)、そのことをことさら主張することはない。一体なぜだろう。

それは、「好きだからこうする」という意識がないから、かもしれない。
「好き」は日常生活に溶け込み、当たり前に近くにある存在となり、やがて「好き」という言葉すら必要なくなっていく(この過程において、例えばパートナーシップにおいては認識の相違により揉め事が起こるイメージだが、ここではその話は置いておく)。

日常に溶け込んで、とろとろになって、渾然一体になることこそ、「好きである」ことなんじゃないか。
なんてことを思った。

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UXコンサル、BtoBマーケ、人事を経てコミュニケーションマネージャー(広報、マーケ、採用広報、組織開発)なう。 書くこと:パン偏愛、可愛いもの布教、働くこと、生きること、1日1考、新サービス考察、旅行、読書録、銭湯、恋愛。 頂いたサポートは、もれなくパンの研究に使われます。