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映画「羅生門」を3回見た話(ネタバレあります)

アマゾンプライムでレンタルして3回、黒澤明の「羅生門」を3回見ています。3回目は聞き流しながら、これを書いています。

そもそも何でこの作品を見たかというと、放送大学の通信指導(レポート)の記述式の問題で、「羅生門」を見て、その主題について云々という問題が出たからです。

他に3問、アランシリトーの小説、中原中也の詩、村上春樹の小説が課題となっていましたが、アランシリトーは読んでも興味が湧かず、中原中也の詩もどの詩を分析するか決めかね、村上春樹は大嫌いなので除外。「羅生門」が最後に残されたからです。

「羅生門」という作品は、原作のタイトルである「藪の中」という、実際に藪のあるような山中であり、物語の真相が藪の中という意味合いを持っているのではないかと推測されるのですが、とにかく1人の武家の死にまつわる真相を、その死に関わった数人の証言が映像化されるという形で進行していきます。

しかし、登場人物たちは自分が見たということの真相を次々と証言していくのですが、そこに描かれた事件の内容は微妙に異なっていて、武家の死については何が本当なのかどんどんわからなくなっていきます。

そして物語の終盤にさしかかった頃、最初に証言した第1発見者が実は事件に関わるのが嫌で嘘の証言をしていて、いっしょに羅生門で雨宿りをしていた男にせかされ、ことの真相らしき話を語り出します。

面白いことにこれまで、他の者の証言にあてられた映像は、どこか芝居がかったきれいな争いであるのに対して、第1発見者の告白による映像は、2人の男が違いに恐れを抱きつつ、必死になって争う姿として表現されています。それはまさに、その証言こそが真実であるかのようなリアリティに満ちています。

そして盗賊が武家を殺害するものの、力尽きた盗賊の手から武家を殺してまで手に入れようとしていた女は逃れてしまうのです。

原作である「藪の中」を読んでいないのでなんともいえませんが、単に山中で盗賊が人を襲うという話が、ある種の変奏のように幾度も語り直されていきます。真実は何で、それは何によって保証されるか、誰にもわからないままに物語は終わりを迎えます。

そして、泣きだした捨て子からも衣類を剥ぎ取ろうとする男や残された螺鈿の担当をくすねた者もいる。だが、子供を捨てる者がいるかと思えば、それを当然のように家族の中に迎えようと抱える男もいる。その現実を見て僧侶はまだ世の中は捨てたものではないと語る。

立場が違えば感じることが違うのは当たり前のことではあるが、それを証言者が変わる毎に映像による文体を変化させて描くという手法により、一つの作品たらしめることに黒澤明は成功したのだと思った。

なんか、偉そうに書いてしまってすみません。レポートはもっとしょぼかったです(笑)。

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