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3/4 久々にやる氣がやってきた、あるいは、もうそんなには寂しくないよ

最近どうにも無氣力かつ食べ過ぎで、睡眠時間も荒れ放題、困っていたのだが、思い出して亜鉛のサプリメントに手を出したらどうも良くなった。つまり、何週間か亜鉛不足が続いていたらしい。一か月以上かもしれない。どうも、冷ケースの近くにいると亜鉛が溶けだしてるんじゃないかって思う。ま~だ克服できねえなあ、電磁波、と思いながら、まあ解決したからいっか、と、取り戻したやる氣で久々にnoteを書いている。

2月の末に、3泊4日で旅行に行ってきた。またもや東京である、11月にも行ったのだが、行きたいイベントがあったので仕方がない。詳しくは別にnoteを書くけれど、まあ出費としては結構高くついた……というかこんなスパンで旅行に行くつもりで金を稼いでいないから致し方ないのだが、飛行機代が往復でだいたい13000円、イベント代が15300円、空港までのバス賃がうちから新千歳の往復と成田から東京駅までの往復で5000円くらい、宿代3泊で11000円、ここまでで大体44000円……お安くあげてる方だとは思うのだが、扶養の範囲で働いてる人間には、結構なお値段であった。更に食欲ばかりあったものだからいっぱい食べた。インドカレー、天ぷら、どじょう鍋、ロールパン、さつまいものお菓子、梅の和菓子、カフェオレとクッキー、などなど…。最近は亜鉛不足での食欲はあったのだけれど、それ以外にも、”な~んか自分で作ったもの、味氣ないなあ”という思いがあって、いやこれも體の冷えと亜鉛不足の合わせ技なのかもと今思ったが、(なぜなら今日作った手羽元煮が美味しかったので…)まあ、愛情のような……自分以外の人の作ったもの、に飢えていたのである。
人が作ってくれたらなんでも美味しい。
……とまで言うには”なんじゃこの不味い飯は!”と怒ることも稀にあるわたくし様なので難しいのだが、でも、やっぱり、人の手で作られたご飯ってのは、嬉しい。普段は自分で作って食べてるからな。ちょっと寂しさがある。

亜鉛不足と、布団が薄すぎたことによる寝不足と、あとは内臓に沈澱した過去の…記憶。トラウマのようなもの。
私の”寂しい”は、そのあたりで構成されている。

今回、浅草でぶらぶらしている時間が長かったので、帰ってきてから”そういやこのアニメ浅草だったよな”とU-NEXTで『さらざんまい』を観た。結構久しぶりに。確認したら4年前のアニメだ。……コロナを挟んだ4年前、という時間、この距離に、私は何を思えばいいのかわからない。随分遠くまで来たな、とは勿論、この社会の変化、そして自分の恐ろしいまでの変わりようを見れば考えるし、でも、一周回って、私は私だ、どうしようもなく、とも思う。この間、街でルーズソックスの女学生を見かけた。巡っている、何もかも。

『さらざんまい』は、今でも、ちゃんと面白かった。……面白かったけど、しかし、どうしようもなく寂しくなった。”人は、誰かに選ばれなければ生きられない”あるいは、”人は、誰かを選ばれないと、生きられない””愛がなければ、透明になってしまうよ”……『さらざんまい』の監督、……幾原邦彦さんの作品で、何回も語られるテーマである。”だから、愛を循環させないといけない”というのが、おおよそ結論だと思うのだが、……なんだろうな、……作品を観終わるたび、私は寂しさを増やしているように思う。幻想的な、妄想上の、寂しさ。私はもう愛を内蔵しているのに、違う、お前は寂しいはずだ、飢えているはずだ、誰かを求めているはずだ―――という、悪魔の呼び声。

恋愛、あるいは友愛至上主義。

誰かが、たった一人だれかが、私を、他でもない私だけを選んでくれなければ、あるいは選ばなければ、――お前は空虚なままである。
という、最終通告。

『彼氏彼女の事情』を読み返す時にも感じる。
私は恋愛によってこそ救済されなければならない。
でなければ一生寂しいままだ。
満たされないままだ。
餓鬼のまま、この世を彷徨い続けることだろう。

……なんていうか、この辺は、時代的な氣分なのだと思う。
”恋愛(友愛・親愛)による救済”が、私が子どもの頃、流行った。
それは満たされない子どもだった私にごりごりに刷り込まれ、私は、今でも呪われ続けるに、……至る。

でも、……
たった一人を選ばなくても、
たった一人に選ばれなくても、
親がクソ野郎だろうが、
どうしようもなく孤独でも、
悲しいことがいくらでもあっても、

……愛は、足りる。
…………こともある。

具体的にはサプリメントとプロテインと灸、ついでに漢方と整體、
…………あとはその辺にたくさんいる、優しい人たちによって。

旅行の出発の時、一本遅れてもまあ間に合うはずだけれど、空港行きのバスに乗ってしまいたくて、私は走っていた。
バス乗り場まであとちょっと、という時に、滑って転んだ。地面が凍っていた、まあよくあることだ。
通りがかりの人が、大丈夫?、と声をかけてくれた。私の手を取り、起き上がらせてくれた。
バスにはぎりぎりで間に合った。
こういう、ありふれた優しさを、”愛”って言っちゃっていいんだよなあ、と私は思った。

愛ってのは、そこかしこにある。
手と手。あるいは肌と肌。そういうものがあれば尚、申し分ない。
というか、手があれば愛が伝わるのではないか。”手料理”とは、そういうことではないのか。手料理、手仕事、手掃除…手掃除?そんな言葉はないか。
まあ、モノによるし、人にもよるのだけれど。私は親の料理には基本、怒りがあるから。
でも、ふらっと入った食堂のおばちゃんがにこっとしてくれれば、カフェのお兄ちゃんがにこっとしてくれれば、割とそれで愛としては、事足りる。ありがとう、ご馳走様といって、店を出る。そういうことで、いいのだと思う。
おじさんっぽくなってきたな、と最近思う。
おれの寂しさは、おじさんと、…その辺の寿司屋で大将や女将と喋ってる一人客のおじさんと、似たようなものなのかもしれない。
結婚してようが、仕事ができようが、……寂しい時は寂しいのだ。
飯と一緒に、愛も少し胃袋に入れておけば、また明日がやってくる。


なるべく人と握手しよう、と思ったことがあって、そう、人間、触る、触れ合うということが大事だなということに納得したからなのだけれど、なんだかタイミングとか感情とか難しくてやめてた、けど、そうだな、これから、人とうまく握手できるように、なりたいかもな。

せめてお釣りを渡す時は、丁寧に渡してみよう。
今の私は売店のおばちゃんで、納品されたパンやおにぎりには、少し、私の愛も乗っけて、お客さんに渡すのだ。

愛がぐるぐると回る。
やっと血が通う。
安心して私は眠る。


おこづかいちょーだい!