描いているのか、はたまた
2022.09.03
・私は昔から度々、自分の視界を疑うような瞬間がある。
今目の前にある視界と、その視界の持ち主と思われる人間の手、足、髪の毛、かけているメガネのフレーム、とわたしという実在しているらしき人間、これらが直結しないのだ。
・しかし私は、例えばゲームの中で展開される架空の世界にすんなりと没入し、ゲーム内の自分のアバターにいとも簡単に自我を憑依することもできる。
・「自分は、あなたは何者か」「何者を目指し、どう動き、何を成してきたのか」という類の話題を好む人は多い。
しかしそもそも「私」という存在自体が不安定で不明瞭なものなのかもしれず、私たちはその不明瞭なものを、不明瞭なものであると思う勇気が必要な気がしている。
・ここで少し話を変える。
母がここ暫く、庭いじりに凝っている。
帰省する度に庭がどんどん賑やかになっていき、楽しんでいるのが窺える。
母が庭いじりを日課とするようになってから、親子関係が変わった。毎日口喧嘩するような時期が続くこともあったが、衝突が減った。
好きに植物を育てる行為が、母に寄り添っているのだろう。そう思いながら、母の育てた庭を見る。
・思うに、明確な結果や結論とは別に、過程の段階で繰り出される行為そのものが、豊かさをもたらすようなことがある。
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