福井県の誕生 vol.28
こんにちは、kurochanです。
今回は福井県の誕生についてです!
文章のみの発信になりますことご了承下さい。
時は幕末が過ぎて明治に入った頃の話になります。
◯明治4年(1871)7月14日
明治政府は国家を中央集権にするために
江戸時代の藩をなくして代わりに
県を置く「廃藩置県」を実施しました。
その当時、全国で261の県が誕生しました。
今の福井県の地域も10の県の分かれました。
とくに旧越前国は藩の領地がかなり複雑で
錯綜していて飛地が多くありました。
そのたった4ヶ月後、
明治4年(1871)10月〜12月
全国に3府302県の管轄地域で
錯綜していた所を整理して
3府72県に統合されました。
◯福井県内では明治4年(1871)11月20日に
2県に統合となりました。
◯明治4年12月20日
たった1カ月で
福井県が足羽県に改称されました。
◯明治5年(1872)11月17日
足羽県の管轄だった
白山麓18か村
(現在の石川県白山市白峰周辺)が
石川県に編入されました。
◯明治6年(1873)1月14日
足羽県が敦賀県に編入されました。
それによって今の福井県域が
敦賀県になりましたが
福井と敦賀で県庁をどこに置くかで論議となり
これをきっかけとして、
越前(敦賀を含む)と若狭の区分だったのが
木の芽峠を境に
「木嶺以北(もくれいいほく)」 嶺北(れいほく)
「木嶺以南(もくれいいなん)」 嶺南(れいなん)
という区分が新しく誕生しました。
◯明治9年(1876)8月21日
嶺北と嶺南が対立した結果、
敦賀県がなくなり、
今の嶺北が石川県、
嶺南が滋賀県に編入されました。
石川県は区域が広がって
人口が182万人、旧石高が220万石となり、
当時は日本最大の県となりました。
しかし、区域が広大で県政がまとまらず、
越前国7郡を石川県から分県する議論が起き、
現在の嶺南と同じ県にする案が出されました。
一方、越前敦賀郡と若狭は
滋賀県と文化的に交流が深かった為、
混乱はなかったようです。
◯明治14年(1881)2月7日
越前7郡と越前敦賀郡・若狭が
石川県、滋賀県から分割されて
福井県が誕生しました!
[参考文献]
編集・発行福井県
「福井県史通史編5 近現代1」1994
今年で福井県は置県143年を迎えました。
幾つかの段階を経て、
今の福井県が出来上がったのです。
2024年3月16日には
北陸新幹線敦賀開業となり、
これまで大阪、京都など関西方面との
文化的交流がありましたが、
東京や関東甲信方面から交流が結ばれて
新時代を迎えることと思います。
最後まで読んで下さりありがとうございました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?