現代思想文庫①「焼酎交換と死」
木下又一郎が死んだ。高校の同級生だった。享年48歳。肝硬変の末期で、肺炎を併発して死んだ。
通夜に行くと、同じく同級生の佐高邦夫が来ていた。俺たち3人は高校を出てからも、年に数回は一緒に酒を飲みにいく仲だった。もっとも木下が2年前に肝臓を壊してからは、その飲み会も途絶えていたが。木下の奥さんから、よかったら今夜一晩あの人と一緒に、と懇願され、夜伽をすることになった。
佐高と二人、座敷のすみでちびちびと温くなったビールを飲みながら、ひとしきり木下の思い出話をし、他の同級生の消息について語りあい、お互いの仕事の話をして、さて、もうさすがに話題も尽きて、しばらくむっつり黙りこんだ後、「あのさ、俺、木下に悪いことしちゃったな」、佐高がぽつんと言った。
「なんだよ、悪いことって」
佐高は、祭壇の木下の遺影に視線をやって、グラスに半分ほど残ったビールをくいっと飲み干すと、話しはじめた。
「あのさ、木下って焼酎マニアだったじゃない?俺、一度あいつが常連だった焼酎自慢の店に連れていかれたことがあるんだよ。そのとき、あいつ、飲みながら焼酎の薀蓄をとうとうと語りだしたんだよね。ほら、あいつって、薀蓄語りだすと止まらない奴だったろ。俺、聞いてるうちに何かうざったくなってきちゃって。ちょっと悪戯したくなったんだ」
「悪戯って?」
「うん、知り合いから幻の焼酎をもらったんだって、嘘ついたんだよね」
「幻の焼酎?」
「うん、そんなものありゃしないんだが、口からでまかせだよ」
「どんな焼酎だって言ったんだ?」
「それは鹿児島の山奥の旧家に伝わる芋焼酎でさ、何かお祝い事があるとき以外は飲まない焼酎なんだって。その家に代々仕える職人が、秘伝の製法で十年に一度、十升だけ作るんだと。材料になる芋を代々特別に育てる農家がまた別にあって、その芋畑に入るときは必ず白装束でなければならない」
「すごいね」
「いや、だから全部口からでまかせだよ。いかにもそれらしい〈神話〉をその場で捏造してやったんだよ」
「お前、そういうの昔から得意だよなあ」
「そうそう、木下の奴、もう信じこんじゃってね。グッと体のりだして、なんでそんな希少な焼酎をお前が持っているんだ、と噛みつきそうな顔で聞いてきた」
「どう答えたんだ?」
「もちろん数百年間、門外不出だったんだが、バブルの頃に時の当主が不動産投資にはまっちゃってさ、ごたぶんにもれずバブルがはじけて屋敷田畑山林全部手放して、没落したんだと。その際、大切に貯蔵していた幻の焼酎、一升瓶にして数十本が好事家の手に渡り、さらにそこから複数の人へ流出していった。俺は知り合いからそのうちの一本をもらったんだ、と」
「なるほどね。で、木下はそれ聞いてどうした?」
「売れ、売ってくれ、と言ったよ。いやあ俺もタダでもらったものだから、友だちのお前からカネをとるのはなあ・・・と言うと、今度は、じゃあ、俺が今もっているいちばんいい焼酎と交換しよう、それならいいだろ?ときた。交換ならこっちも気が楽だ、じゃあそうしよう、と言ってやった。あいつ、喜んでねえ」
「ちょっと待てよ。お前その焼酎は口からでまかせなんだろ?そんな焼酎どこにもないんだろ?」
「さあ、それだよ。俺は次の日、会社帰りに駅前のスーパーに寄って、いちばん安い芋焼酎を一本買ってきた。それで、跡がつかないようにきれいにラベルをはがしてね、キャップも百均で買った無地のものに替えた。幻の焼酎の出来上がりだよ。日曜日に木下がやってきて、ありがたそうに持って帰ったよ。あいつが交換にもってきたのは熊本の『日照り雨』だったかな、いい焼酎だったよ」
「なんだよ、それ。スーパーでいちばん安い焼酎なんだろ?そんなのすぐにバレるだろ?」
「それがだなあ」
佐高は再び、祭壇の写真を見た。俺もつられて写真を見る。木下が俺たちを睨んでいた。
「その日の夜、木下から興奮した口調で電話がかかってきてね。あ、バレた、怒るかな、と一瞬思ったが、ところがあいつ、ありがとうありがとう、ありゃあスゴイ焼酎だ、あんな旨い焼酎初めて飲んだ、さすが幻の焼酎だ、ありがとうありがとう、と手放しで喜んでるんだ。あんまりうれしそうなので、しまいに俺、良心がちくちく痛んできて早く電話を切りたくなってね。ちょっと辛かったな」
そして、佐高は木下の遺影を見つめたまま、
「こんなことになるんなら、生きてるうちにあの嘘バラしてさ、なんだクソこの野郎!ってあいつに怒られた方が良かったなあ・・・」そう言って、鼻をすすりあげた。
俺もなんか急に寂しさがこみあげてきて、黙ってビールの残りを飲み干した。
そのとき、遠方の親戚の人を近くのホテルまで送りに行っていた奥さんが、座敷に戻ってきた。手に一升瓶とグラスを三つもっている。それを見るなり、佐高の顔がひきつった。
「これ、木下が生前大事に飲んでいた焼酎なんですよ。なんでも鹿児島のさる旧家に代々伝わる門外不出の幻の芋焼酎なんですって。あの人、これを何かうれしいことがあったときだけ出してきて、ちびちびちびちび美味しそうに楽しみながら飲みまして。このバカラのグラスで。飲むといってもこのグラスに三分の一くらいずつですね。だから、5年くらい前に手に入れたんだそうですけど、まだほら、グラス二、三杯ぶんほど残っているでしょう?」
奥さんのいう通り、一升瓶には焼酎が五分の一ほど残っていた。俺と佐高は思わず顔を見合わせた。奥さんはそれには気づかず、三つのグラスにその焼酎を注いだ。そして祭壇の写真の前に木下のぶんのグラスを置いて「あの人のとっておきなんです。最後にいっしょに飲んでやってもらえませんか?」目をうるませてそう言った。
「乾杯」
「乾杯」
俺と佐高は、木下の遺影にグラスをかかげ、ごくりと飲み干した。佐高の真っ赤な目から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。
なるほど。わかったよ、木下。これこそは、幻の焼酎だ。
【参考文献】
ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁司・塚原史訳、筑摩書房 、1992年
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