頑張れ≒気張らないでということに気づいた件について。
10月に編入試験を受け、11月に合格発表があった。
※編入試験については、編入先など個人が特定できる可能性があるため、
この場では言及しません。ご了承ください。
編入試験を受けるまで、私は「頑張れ」という言葉が嫌いだった。
なんだか、「頑張れ」の前に、「せいぜい」という言葉が付いている気がした。(あまりにもひねくれている笑)
「せいぜい、頑張れ」
このように言われていると感じていたのは過剰な思い込みではあったが、「頑張れ」と言われて、「何を?どう頑張るのか?」と思ってしまう自分がいた。そして、「頑張れ」と言った人から突き放された感を抱く自分がいた。そう、素直じゃないのだ。正直なところ、試験勉強自体が苦ではなく、むしろ楽しんでいたため、無理して頑張って努力している実感が無かった。そして、素直に応援してくれていると感じることができなかったのは、自分の自己効力感の低さに原因があったと思える。頑張ったとしても報われるとは限らないのだから、頑張る(無理をする)範疇までいかないようにしよう。そう思っていたからか、「頑張れ」に違和感を抱いていた。
このときの私は、
「頑張る=歯を食いしばって自制して無理に耐えること」
だと考えていた。
しかし、この「頑張れ」という言葉の意味について捉え直すある出来事が起きた。
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試験直前に、ある一言を言われた。
「気張らんで(気張らないで)」
要は、「頑張らないで」と言われたのだ。
頑張ろうと気を張ってしまうと平常心が保てなくなり、
いつも通りの自分が発揮できなくなる。
そうか、気張ってしまったら
いつもの自分らしくいられなくなってしまう。
私は、「頑張れ」よりも「頑張らないで」という言葉がほしかったのか。
「気張らんで」の一言からは、
「気を張りすぎて、頑張りすぎて自分を見失わないで」
と言われている気がした。
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そして、「頑張れ」とは、がむしゃらに頑張ることなのか、と疑問に思った私は「頑張れ」の語源も気になった。
「頑張る」には、2つの語源があった。
「眼を張る説」と「我を張る説」
私は、ぜひとも「我を張る説」を推していきたい笑
なぜなら、「頑張れ」を「我を張って」と捉えたならば、それは「気張らないで」と同じ意味ではないだろうか?
つまり
頑張れ=気張らないで
なのだ。
まーた、ぶっ飛んだ話してるよ笑どういうことだよ笑
と思われたかもしれないが、至って真面目だ。
「我を張る(頑張る)」=「我を通して自分らしく」
と捉えたのならば、
「気張らないで」=「気を張りすぎて自分を見失わないで」
と似てる気がする。
つまり
「頑張る」≒「気張らないで」=「自分を貫いてほしい」
となるのではないだろうか。
「自分らしく」「自分を貫く」という言葉にも重みを感じるかもしれないが、要は「平常心であれ」と言いたいのだ。緊張するときほど、いつも通りの力が発揮できれば、それで十分自分らしく頑張って(我を張って)いるのだ。
今までは、
「頑張ること」は「無理をして耐えしのぐこと」
だと思っていたが、
今回の件で
「頑張ること」は「気張らないでいつもの自分でいる平常さを保つこと」
だと思った。
そして「頑張れ」という言葉から勇気をもらい、少し好きになった。
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以上がノムラリアンの考える「頑張る≒気張らないで理論」でした。
ここまで、駄文を読んでくださり、ありがとうございました。
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