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雨降りの穴 

          

はじめて会ったときから、あ、波長が合うな、と感じたひとだった。たとえば文章を書いたら、同じところに句点や読点を打つだろうな、と。あたしは太陽のようにぎらぎらと、底抜けにあかるいひとは苦手だった。思慮深い、という言葉がとてもよく似合うそのひとは、ここで話した一言一句、きっと誰にも洩らさないだろうという信頼感があった。だからそおっとこころの洞をひらき、そのひとと秘密を共有した。
「ちょっとここ、みて」
ある時、そのひとに言われて覗いた暗闇は、目を凝らしてもまっくらで、どこまでも静謐で、まるで宇宙につながっているかのようだった。闇の奥の方に、一瞬キラッと光るひかりがみえた。なんだろ、もっと見たい。そう思った瞬間に、あたしは恋に落ちた。

覗く、とは背徳感があり官能的だ。普段は見えない、あるいは見せない隠された部分に目を凝らす。大事だと思っていたタカラモノが、実は取るに足らないつまらないガラクタだったり、逆に見逃していたものが存外きれいだったりもする。
そのひとは指が細くて長くてひんやりとした、うつくしい手の男だった。それから声がよかった。あたしたちは歌をうたった。やさしく、烈しく、共鳴しながら。

いつもなんでもいいよと言えるのは、そのうしろ暗さがあったからだった。そんなこと言われても、もう引き返せないくらい好きだった。まだ若かったあたしは、それを含めて恋をした。きっと長くは続かないと、こころのどこかで知っていながら。

最後に会ったのはあたたかな四月の午後だった。窓の外には春の雨がしとしとと降っていた。あたしをえらんで、そのひとことが最後まで言えなかった。くしゃくしゃっとあたしの髪を撫でたあと、そのひとは去っていった。こんなときでも、きれいな指だな、とぼんやりと思った。

その後ろ姿を見送ったあと、ひとり、あたしは泣いた。声をころして泣いた。窓の外には春の雨がしとしとと降っていた。あ、あたしは泣きたかったのだと、そのときはじめて気がついた。
あたしのこころにぽっかりと空いた穴に雨が降っている。そこに少しずつ感情の雨水が溜まり、いつしか溢れ出す。そうか、溢れ出してしまったのだと思った。
窓の外には春の雨がしとしとと降っていた。

【作家プロフィール】
柴田 香
1978年 秋生まれ。短歌とものがたりで表現する、市井のものかき。
書くはなす読む編む紡ぐととのへるわれもことばのひとなればこそ

●のぞきあなアート 
タイトル 雨降りの穴

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