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〔200〕明治政体のトップ岩倉具視VS國體の総支配人堤哲長

〔200〕明治政体のトップ岩倉具視vs國體の総支配人堤哲長
 吉薗周蔵が娘明子に遺す「敗戦記」を解読してきた落合は、周蔵が祖父堤哲長について語る〔199〕に至り、ここで述べられる周蔵の見解をハッキリと修正する必要を感じました。
 公家には階級があり、摂家・清華家・大臣家・羽林家=名家・半家の順で格kが下がりますが、哲長の堤家は下から二番目の名家です。
 大政奉還に際して廷臣として活躍した岩倉具視は明治二(1869)年に新政府のトップ輔相に就きますが、羽林岩倉家へ養子入りしたもので、実父堀河康親も半家萩原家から羽林堀河家に養子入りした人物です。
 堤の名家と岩倉の羽林は同格で下級公家の典型で、哲長と具視は幕末の朝廷で同じ官職「右衛門督」に就いています。
 文政(1825)年生まれの岩倉具視は嘉永七(1854)年に「侍従」に任官して孝明天皇に仕えます。これに対して文政十(1858)年生まれの堤哲長は、孝明天皇の「近習」として実質的に侍従長の立場であった、と云われています。
 岩倉具視が大政奉還を機に参与→議定→輔相と、躍進が著しかったのに対
し、幕末に右京太夫に任じた堤哲長は維新後右衛門督に転じますが、明治二(1869)年正月に新政府の制度事務局輔に就いた後、四月四日に急死します。
 堤家では哲長より数代前の当主堤代長の娘が薩摩侯島津重豪の側室となって「おチマの方」と呼ばれます。「御千萬の方」が生んだ重豪の嫡子斉宣の子が斉彬と久光ですから、結局「御千萬の方」の子孫が今日まで連綿として島津の本流をなしております。
 ことに久光の子島津忠義の娘が久邇宮邦彦王妃として生んだ香淳皇后が今上の御祖母ですから、堤家は現皇室の血脈をなしているのですが、落合がここで言いたいのは、当時の日本で最も裕福であった島津家が親戚の堤家の窮乏を放っておくはずがない事です。おそらく島津斉彬などが手を回して、堤家の家計を支援していたものと思われます。
   堤哲長は幕末期の朝廷の要人ですから、それほど窮乏していたはずはなく、孝明天皇の意を体して巷間で活動する便宜上、世間をたばかるために貧窮を装っていたものと思われます。
 ギンヅルは堤哲長が行っていた諜報活動を手伝っていたのですが、哲長が偽装薨去した後は哲長の代わりに活動していたのです。
 ここでの問題は「周蔵手記」の記述に「哲長が維新後、ギンヅルに伴われて宮崎県西諸県郡小林村に隠れ、町医者の真似事をしていた」とあることです。「敗戦記」の内容もこれと矛盾していません。
 落合が受けた「國體秘事伝授」では、明治二(1869)年旧暦四月四日に哲長が急逝したのは実は偽装死で、二年前に偽装崩御されて堀川御所に隠棲された孝明天皇および皇太子睦仁親王に仕えるために堀川御所に入った、と伝えられています。
 ここにおいて「國體秘事伝授」と「敗戦記」および「周蔵手記」の内容が衝突しますが、「國體秘事伝授」の内容は「原則として」絶対的に真実ですから、落合は「國體秘事伝授」に沿って世界史を解明してきましたが、堤哲長の事績は公開歴史に潜んでいますから、この問題の真相は公開歴史を分析すれば、解明はそんなに困難でなく、落合はすでに落合秘史シリーズ(成甲書房刊)の幾つかで発表しています。

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