〔75〕稽古36
〔75〕稽古36
四柱推命術の基礎理論たる命理学を稽古するうち、いつしか道を外れて日本経済・政治論に迷い込みましたが、間もなく脱出して本来の命理学に戻りますので、もう少しお待ちください。
経済と環境の関係に関する洞察を重ねた白頭狸が行き着いたのが「ローマクラブ」流の環境論や資源論でなく、人口制限諭でした。当時の狸は通貨問題など念頭になく、「環境問題の根源はひとえに過剰人口に在る」と考えたので、「現状(当時の)世界人口三十五億人を地球の定員とすべき」との思いを強く抱きました。
そこで宮崎勇さんの後任の内野達郎課長に、経済企画庁として「地球人口の適切な管理」を提言することを具申した所、内野課長は「人口問題は役所としてはタブーだよ」と、悩みを露わにしながら一言だけ口にされました。たしかに「地球人口の適切な管理」を関する監督官庁なぞ日本に存在するわけはありません。
ところが、昭和二十四(1949)年に建国した中華人民共和国は、「人口は国家の財産」との伝統的思想のもとに「人口増加策」を国是と定めました。マルサスが唱えた「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか増加しない」という人口論は、資本主義的な反動理論にすぎず、社会主義社会には人口問題など存在しない」との中国共産党の主張のもとで「産めよ増やせよ」の楽観論が支配した中共では人口増加が幾何級数に進み、建国四年後に初めて実施した人口調査では、事前予想より一億人以上も多い六億二百万人と出て、当局を震撼させました。
予想以上の人口増加に驚愕した中共当局は、慌てて都市部での計画出産奨励に転じますが人口増加はさらに進み、七億、八億と止まる兆しもありません。
白頭狸が人口問題に嵌ったのはそのころです。自分で調べて見たら当時の世界人口は三十五億人でしたが、出典は忘れました。
中華人民共和国では、昭和四十七(1974)年に計画出産を提唱した国務院総理周恩来が翌年国務院に設けた「計画出産指導小組」が「晩婚・晩産・一所帯二子まで」を提唱し、農村部にも及んだことで、少子化において多大な実績を挙げました。
狸はこれまで、中共の人口抑制という極めて困難な問題に取り組んだ英雄と して国家主席毛沢東を称賛しましたが、人口抑制のための「一人っ子政策」を発案、推進したのが、実は周恩来であったことを、今回の研究で悟りました。
周恩来が大東社員であることを狸は近来論じてきましたが、最近知り合った華頂博一さんから伺ったのが、以前に受けた伏見宮家の家伝に「周恩来がハプスブルクの血筋に繋がる」とあることです。これで落合史観の裏付けが又一つ出てきました。
白頭狸が人口問題に関心を抱く折から、「ローマクラブ」が環境学者デニス・メドウスの報告を受けて昭和四十七(1972)年に発表したのが『成長の限界』で、「人口増加と環境汚染がこのまま続けば百年以内に地球上の成長は限界に達する」ことを指摘したのです。
それ以来、人口問題を胸底に秘めてきた狸は、今回のコロナ騒動を目の当たりにして「地球そのものが、地球が抱えきれなくなった過剰人口の自然淘汰を始めたのだ」と直感しました。
「ロ――マクラブ」が『成長の限界』を発表した昭和四十七年はニクソン大統領が米ドルと金の交換停止を宣言した年ですが、その兆しは前年のニクソン訪中に見えています。
オリベッテイの副会長アウレリオ・ペッテイが昭和四十五(1970)年に構想したシンクタンクが「ローマクラブ」と命名され、ペッテイが代表に就いたのも昭和四十六年です。
百米徒競争の始まりは号砲でなく走者が発走位置に就いた時ですから、昭和四十六(1971)年こそ世界のあらゆるものに大きな変化が萌した特異年と観るべきものと思われます。
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