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〔230〕「遺伝記憶」はクラウドで、これを引き出すパスワードを次世代に伝えるのが「染色体」11/11重大修正したので是非とも再読してください。

 落合が〔229〕で発見した「因縁=遺伝記憶」は、本稿が遂に突き止めた重要事項なので、それを説いた〔229〕の要約をこのあとで再説することとし、ここでは「ひねもすパソコンに向かう落合の心に浮かぶ由なし事」を物狂おしく書きつけることにいたします。
 心に浮かぶ「由なしごと」とは、いうまでもなく落合自身の回想ですが、今は単なる過去事象の回想でなく、その「因って来る因縁の解明」を意図的にこころざしたのであります。
 というわけで〔229〕を書くうちに次から次へと浮かんできたことを、以下に書付けますが、まずは本稿に度々出てくる「加太」から始めます。
 律令制の行政区画「五幾七道」の一つ「南海道」の官道が大和国から紀和国境の眞土山を越えて紀伊国に入り、萩原駅(伊都郡かつらぎ町萩原)から名草駅(和歌山市山口)を経て紀伊国府(同府中)に達し、そこから紀ノ川北岸を西進して達した海岸の漁村が海部郡加太荘加太浦で、ここに「加太駅」が置かれます。
 紀伊水道に面した加太駅は、「駅」とはいうものの実際は「湊」で、官道はここから海路になり、加太駅の次は淡路島の由良駅(洲本市由良)を経て淡路国府(南あわじ市神代国衙)に達し、福良湊から海路に入って阿波国に渡ります。
 井口少年の小学時代、遠足の行先は「大池遊園」「淡輪遊園」「加太」「砂山」「根来寺」のいずれかで、季節に応じて先生方が選んでいましたが、遠足地の中で加太と根来寺に強く惹かれたことを井口少年はずっと記憶していました。
 それから二十年後、野村證券事業法人部業務企画課長としてM&A業務の開発を命じられた落合(井口から改姓)は、最初の案件が成功した時、自分のした行為の中に証券取引法ならびに野村證券の従業員規則に違反する事項があったかどうか、たいへん気になりました。
 その数年前に野村証券に入った落合は、折から発生した「協同飼料事件」と「殖産住宅事件」における野村證券としての対応を命じられ、法廷通いをしていましたが、その中で証券会社とその従業員個人が直面する法律問題について感じることがあったからです。

 そこで大蔵省証券局業務課の誰か(名を失念)に探りをいれたところ「事前に回答はできないが、違反があったら処置する」とのことなので、「これは結局、自分が腹を括るしかない」と思いました。
 社内規定違反の可能性については、文書課長の反勝彦さんに相談したところ、「てんでにうまくやるのが経済人だ。君も一個の経済人だろ?」と教えられて、不言実行を決意しました。
 一件が完了した後、無性に帰郷したくなった落合が春先に和歌山の父の家に赴いた途端、単身で根来寺を参拝した理由はとくにありません。
 境内の「きりもみ不動堂」へ回ると、護摩焚きの案内があったので、人生初めての護摩を焚いて貰いましたが、願い事に「官災消除」と書いたのは、この度のM&A一件で独断専行した自分の行為が證券界や大蔵省にどのように受け止められるか不安だったからです。
 それにしても自分は何故あの時、根来寺に行きたくなったのか。これは決して偶然ではなく明白な理由があったのです。その理由が(少なくとも半分が)判ったのは十二年後です。
 「佐伯祐三絵画の真贋事件」で調査を頼まれた吉薗明子さんから、「紀州粉河の井口家が根来者」という記録がある、と聞いた落合は、にわかに現地調査を思い立ち、和歌山県元副知事の夫人梅田恵以子さんの案内で根来寺に赴いたところ、赤井吉本坊という根来者の末裔という赤井さんから根来者の名前書を見せられました。
 その際に根来寺で入手した『根来山誌』159頁に、正徳二(1712)年五月改の「根来者百十人」の名前を記しており、その中に「那賀郡豊田村 井口徳生院および同人子紋六」とあるのがわが井口家の祖先と判りました。
 同書の163頁には寛保元(1741)年十一月当時の「根来百拾人」の名前書がありますが、これが落合が根来寺で見せられた上述の赤井氏文書です。
 三人の紀州藩士が勤める根来頭の下に三組の根来者があり、そのうち小嶋三右衛門殿組の筆頭に「豊田 小頭 井口徳生院」とあるのも、同じ家と観て間違いないのです。

 これについて父の井口幸一郎に質したところ、「そういえばうちの先祖は池田村から粉河に移ったと聞いたなあ」というだけで、それ以上は知らない様子です。
 そこでわが祖父井口米太郎の弟の子で、粉河町で町会副議長をしている理容師の井口氏を尋ねたところ、「莞爾さん、自分らはふた従兄やな。自分が親から聞いたのは、先祖は徳川と一緒に紀州へ来て、【百】と呼ばれて和歌祭りの先頭を歩いたそうや」ということしか語りません。しかし「百」とは「根来百人組」の略称ですから、
 これだけ聞けば、我が家系が根来者である証拠として十分です。那賀郡豊田村住の根来者井口徳生院の一族が同郡中山村に移り、その後に中山村が粉川村に合併となると、井口家も中山村から粉河の中心部に移った事が判明したのですから。 

 ここまで判ったことで、仏教の「因縁」というものも、正確に追究すれば、殆どが「記憶遺伝」と判明する、との仮説を落合は建てたのです。
 仏説を基にして建てた「記憶遺伝説」の概容は次のようなものです。
➀「因縁」の本質は「クラウド」を成して空間に充満する「遺伝記憶」であること、
➁男系を同じくする家系は先祖代々共有する「パスワード」を用いて各世代が「クラウド」から引き出した「自家の記憶」によって世代間が繋がる事、
③精子の染色体は「遺伝記憶」の全部を伝えることはなく、「遺伝記憶」を「クラウド」から引き出す「パスワード」のみを伝える事。
 以上です。

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