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〔139〕郭松齢のクーデタの後の満洲

 〔139〕郭松齢のクーデタの後の満洲
 関東軍が奉天軍を支援したことで郭松齢のクーデタが失敗に終わると、奉天政権では楊宇霆と張学良の激しい対立が始まります。
 従来の史家のほとんどはこれを権力闘争と見なしていますがが、表向きは権力闘争であったとしても、本質は「辛亥革命の理念」に対する奉天政権の
対応を巡る思想闘争であった、と落合は考えます。
 問題は「孫文の革命理念」が、支那本土に流入してきた政治思想すなわち「国際共産主義」と絡んでしまったことです。
 「孫文革命」の理念は御存じの「三民主義」で、共産主義思想とは縁遠い近代化路線ですが、シナ本部の現実の政治は、北洋軍閥が解体して誕生した群小軍閥が乱立して互いに相争う形になりました。

 ようするに辛亥革命の結果誕生した中華民国は、革命党が北洋軍閥を解体することができなかったことが理由となり、統一国家としての中央政府が存在せず、多くの軍閥が各地に割拠してそれぞれ軍政を敷く国家形態となりました。つまり中華民国は「春秋時代」のシナ世界と全く変らない「中央政府不在地域」となったのです。
 本稿はここでWWⅡ後の日本人が落合を含めて、ほとんど知らない歴史事実を述べますが、それは日露関係と中露関係で、これを知らなければ、ロシア・中華人民共和国で現在起っている政治状況を理解できないからです。
 われわれがまず知るべきは、ユダヤ系クリミア人の革命家アドリフ・ヨッフェ(1883~1927)のことです。
 明治三十八(1910)年の第一次ロシア革命に参加したヨッフェは、その後亡命したドイツで知り合ったレフ・トロツキー(1879~1940)の『プラウダ』編集を手伝っていましたが、大正元(1912)年にウクライナで逮捕され、入獄の後シベリア流罪になります。

 大正六(1917)年に始まった第二次ロシア革命(第二次ロシア革命)でトロツキーと並んでボルシェビキ過激派の一中心となったヨッフェは、大正七(1918)年三月、WWⅠ交戦国ドイツとの単独講和交渉で功績を挙げ、大正十一(1922)年にソビエト政権の全権代表(中華民族駐在大使)として中華民国に派遣されます。
 当時、中華民国には中央政府がなく、北京で北洋軍閥の総帥袁世凱の後継を自任する軍閥政権と広州を拠点にした孫文の国民党政権が対立していましたが、前者は仲間同士の奉直戦争中で相手にならず、広州政権の孫文と会談を重ねたヨッフェは、大正十二(1923)年二月に孫文と「共同宣言」を発表します。
 宣言の主旨は「ソ連は国民党政権を支援するが、共産主義を強制しない」というもので、大正十三(1924)年の第一次国共合作の切っ掛けとなりました。
 ヨッフェがその直後に来日したのは、後藤新平の極秘要請を受けた大杉栄が密出国して北京に届けた後藤親書により招待されたからです。
 後藤新平は当時東京市長ですが、実は大東社員で黒龍会の最高幹部でもあり、「その立場で」革命後のソビエト・ロシアとの国交再開を図っていたのです。
 大杉榮も実は大東社員で、無政府主義勢力に潜入していたことは、昨年初版の拙著『國體志士大杉栄と大東社員甘粕正彦の対発生』が初めて明らかにしたことですが、史学界も教育界もメデイアも、拙著と本稿の読者の外はほとんどがこの事を知らず、二年たった今も、巨大な誤解を元にした通説に立って誤った史観を流し続けているのです。

 ついでに云えば、明治開国以後の日露関係を規定した日露戦争において、決定的な戦果をもたらしたスエ―デン駐在武官明石元二郎大佐(旧制6期)が創ったとされる諜報網は、実はハプスブルク大公隷下の「大東社」が張っていたネットワークです。
 参謀総長上原勇作大将の密命を受け、血液型研究のために大正五(1916)年にウイーン大学に潜入した吉薗周蔵は、出国前に当時台湾総督の陸軍大将明石元二郎から紹介されたルートを辿って、無事ウイーン大学に辿り着きました。
 このルートを周蔵は、「明石が自身で創った」と終生信じていましたが、実は大東社の諜報網だったのです。

 閑話休題。その後ソ連の極東大使になったヨッフェは、大正十二(1923)年四月に来日して、後藤新平との間で日ソ国交の進展に勤めますが、病気が悪化して同年中に帰国します。
 帰国したヨッフェを待っていたのは翌年のレーニンの死によって始まった国際共産主義者トロツキーと國體共産主義に目覚めたスターリンの抗争で、トロツキー派とみなされたヨッフェは、昭和元(1926)年にトロツキーがスターリンとの抗争に敗れたことで除名され、翌年に自殺します。
 中露国交の魁となった「孫文・ヨッフェ共同宣言」の相棒の孫文も大正十四(1925)年三月に逝去しています。
 
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