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佐伯祐三真贋問題の裏側

〔46〕佐伯祐三真贋問題の裏側 8月2日
承前
書き忘れていたことがある。しょうもないこと、と笑われるかも知れぬが、たぬき本人はずっと気にしてきたことだから、ここに吐露したい。
 それまでに一二度寄稿したことのある月刊情報誌『ニューリーダー』が、佐伯祐三についてわたしに連載物を書いてくれないか、と打診があったのは平成八年一月のことである。
名前は幽かに聞いてはいたが、一点の作品もみた覚えのない佐伯祐三画伯について、わたしが初めて関心を抱いたのは、平成七年八月三十一日のことであった。
 その経緯と展開は、拙著『天才画家佐伯祐三真贋事件の真相』にあらかた書いたからここでは省くが、それから四カ月しか経たない頃に、『ニューリーダー』の足立編集長から、右の依頼があったのである。
 佐伯祐三の真贋事件とは、吉薗周蔵の遺族が福井県武生市(現・越前市)に寄贈を申し出ていた佐伯祐三絵画が、画商と絵画修復家から贋作との指摘を受けて受贈を拒絶された事件である。
 前述の八月三十一日は、それに関する『報道特集』というテレビ番組を見た日である。普段はテレビを見ないわたしがその番組をみたのは、タイトルの「真贋問題」に惹かれたのである。
 骨董業界に詳しい知人大谷満さんから電話があったのは、その数日後であった。吉薗遺族のために佐伯作品の真贋に関する調査をやってくれないか、という依頼であった。大谷の紹介で吉薗遺族と会い話を聞いたわたしは、自分でも多少調べて見たところ、これは断じて贋作でないとの心証を得たが、十一月に入って受贈拒絶の決定をした武生市が、その理由を「真贋が疑わしいから」と、発表した。
 佐伯真贋問題の真相は、佐伯米子未亡人が、夫の遺作に「水彩で上書きして油を垂らす」という手法で加筆した作品が多数存在することである。その
米子加筆品はそれまで市場でホンモノとして売買されていたが、吉薗遺族から武生市に一旦寄贈された作品はまさにホンモノなので、それでは米子加筆品を購入した蒐集家はもちろん、画商も修復家も評論家も困る、ということである。
 真相を突き止めたわたしは、吉薗遺族の救済と美術界の不正を正すために自分の調査内容を公表したかったので、『ニューリーダー』の要請に二つ返事で引き受けたのである。
 後で知ったことだが、既存の権威に逆らうこのような報告は、週刊誌ならばともかく、クオリテイのあるメデイアは余程の事情がないと扱わないものである。
 それがわたしの場合、メデイアの方からの依頼ということなので、早速平成八(一九九六)年三月号から連載を始めたのである。
 それから数か月して「佐伯真贋の問題を単行本で出したらどうか」という話がきた。出版社はすでに時事通信社に決っていたのも、今思えば不思議であるが、ともかく『天才画家佐伯祐三真贋事件の真相』が出版されたのは、平成八年秋のことであった。
 後で聞いたところ、この出版は時事通信社の雑誌に連載物を執筆中の藤原作弥という方が、推薦してくれたというではないか。平成十年になり、その藤原さんが日銀副総裁に抜擢された時は、正直言って思わず手を打った。
 三重野批判をしたわたしに、佐伯真贋の解明依頼がきったのは、決して偶然でない。『ニューリーダー』に連載を求められたのも、時事通信社が単行本の出版を持ちかけてきたのも、すべて一連の計画で、しかもその中心に自分が置かれていることは間違いないのだ。
 このことを確信したわたしは、全容が把握できるまでわが運命を因縁の流れに任せ、善果を得ることに勉めることとしたのである。(続く)。

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