〔114〕宋家三姉妹と蒋経国
〔114〕宋家三姉妹と蒋経国
蒋介石が、昭和五(1931)年に娶った後妻宋美齢(1898~2003)は、有名な宋氏三姉妹の末娘です。
三姉妹は上から順に、明治二十二(1889)年生まれの宋靄齢が金融政治家孔祥煕の夫人となり、明治二十六(1893)年生まれの宋慶齢が言論政治家孫文の夫人となり、明治三十一(1898)年生まれの宋美齢が軍人政治家蒋介石の夫人となりますが、次女と三女の間に明治二十七(1894)年生まれの宋子文がいて、義弟宋子文とともに国民党政権の財政政策の中心を担います。
さて今から述べるのは、落合が伝授された國體秘事の一つで、「明治四十三(1910)年生まれの蒋経国は蒋介石の長男とされるが、実は宋氏三姉妹の弟」ということです。”俄かに信じがたい”どころでは形容できない程の秘話ですが、何しろ國體秘話伝授の一環として与えられたジグソー・パズルの一片ですから、おろそかにできません。
そこで、まず三姉妹と宋子文の父から、この家族の実体をあぶり出してみようと思います。宋氏三姉妹の父の宋耀如(1863~1918)は海南島の客家人で、旧名を韓教準といい、アメリカに渡った時に宋氏の養子となり、商売をやめてメソジスト教会の宣教師・牧師になりました。
まず注目されるのが「客家」です。國體伝授に従えば四十八歳で蒋経国を儲けた宋耀如は確かに客家人ですから、蒋経国の素性は客家ということになります。
明治二十(1887)年に浙江省奉化県で生まれた蒋介石の出自は裕福な商家ですが、幼くして父を亡くしたため、教育熱心な母のもとで質素な母子家庭で育ちます。
生地の毛鳳美の家塾で学んだ蒋介石は明治三十五(1902)年に毛の娘福梅と結婚し、明治三十七(1904)年から新制学校で英・数を学び、さらに西洋法律を学んで明治三十八(1905)年に生家に戻ります。
明治三十九(1906)年、軍人を目指す蒋介石はに東京振武学校への入学を図り東京へ赴きますが、袁世凱が設けた保定陸軍促成学堂を出ていなかったため入学できなかったものの、東京で中華革命の実践活動家陳其美と知り合い、大きな影響を受けます。
いったん帰国して保定陸軍促成学堂を卒業した蒋介石は明治四十(1907)年七月に再来日して東京振武学校に入り、二年間修業しますが、陸軍士官学校に入学できず(入校していたら石原莞爾と同じ二十一期の筈)帝国陸軍の隊付士官候補生となり、明治四十三(1910)年十二月から高田第十三連隊に配属されます。
蒋介石に長男経国が産まれるのはこれより半年前の四月二十七日です。生母は故郷にいた妻の毛福梅とされますが、これは虚偽で、真相はメソジスト教会の牧師宋耀如がどこかの女性に産ませた男児を、毛福梅と蒋介石夫妻の子として入れたことになります。
そのためのアリバイとして、明治四十二(1909)年九月前後に蒋介石が帰郷していたことが必要にです(落合は未検証ですが、公開履歴はおそらくそうなっている筈です)。
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