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〔118〕ポンピドー牧師と後藤新平 9/19改訂版 9/20修文再読必須

〔118〕二十世紀世界史の謎 ポンピドーとメソジスト教会と後藤新平
 落合がポンピドーの名を初めて知ったのは「吉薗周蔵手記」です。元帥上原勇作の個人付特務であった吉薗周蔵の手記を解読していた落合は、手記にしばしば出てくる中華民国留学生王希天について調べていたら、仁木ふみ子の著作『震災下の中国人虐殺』にその名が出てきました。大正九年の「警視庁公安課の報告」の中に監視対象として排日主義者王希天の名があるのです。
 吉薗周蔵より二年遅く明治二十九(1896)年に大清帝国吉林省の長春で生また王希天は大正四年の日本に留学してきましたが、大正十二年の関東大震災のとき、帝国陸軍の野戦重砲第一連隊の垣内八洲夫中尉(士候31期)により小松川の逆井橋上で殺害されました。
 田原洋や仁木ふみ子などの左翼活動家が日本性悪説から発する妄想をもとにした著作を発表していますが、その内容に異議を唱える者が歴史学者はもちろん自称保守派の言論人に一人もいないのが戦後日本の文化状況で、この妄想も歴史事実として公認され確定されてしまいました。
 学生時代はもちろん社会人になっても、落合がこれらの妄想を信じて居たのは、全くもって日教組影響下の教科書と、NHK・朝日新聞・岩波書店などマスメディアのおかげですが、平成八(1996)年に初めて接した「吉薗周蔵手記」の解読を進めているうちに「王希天失踪事件」の真相を覚ることができました。
 王希天失踪事件の真相を知った落合が、これを天下に明かすために筆を執ったのが令和二(2019)年で、調査と研究の成果を落合吉薗秘史シリーズの第八巻『応神・欽明王朝と中華南朝の極秘計画』(紀州文化振興会編)の中に収めました。
 そもそもこのシリーズは「吉薗周蔵手記」を後世に残す目的で、活字化して公開したものですが、前半を「周蔵手記」の解読に宛て、後半で個別の歴史事象を取りあげて詳説するという独特の構成にしたことが、今になってある種の障害となりました。

 たとえば、この拙著のタイトルは上掲の如く『応神・欽明王朝と中華南朝の極秘計画』というもので、王希天失踪(偽装殺害)事件とは全くかけ離れていますが、これは読者として、シリーズ全巻を読破する方々を想定したからです。
 ともかく落合が注力した自信作の「王希天事件の真相」が、このタイトルに埋もれてしまったのはいかにも失敗で、本来は解読編に「王希天失踪と甘粕正彦」、解説編に『応神・欽明王朝云々』と、それぞれの内容が判るタイトルを付けて表紙に出したら良かった、と思っています。
 話を戻すと、大正十二(1923)年に発生した「王希天失踪事件」は、東京憲兵隊の渋谷兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦大尉(士候24期)と、参謀本部附砲兵大尉遠藤三郎(士候26期)が共謀して企んだ偽装殺害だったのです。
 勿論王希天本人も同意していますが、この偽装死工作の中心は王希天本人でなく上部団体の大東社と観るのが正しいのです。

 理由は、工作員が従来の路線において所期の成果を挙げた時、本人の意向や周囲の状況により、もはや方向転換できない場合があるからで、その場合は敢えて偽装死して次の人生を生きることを選ぶのです。
 西南戦争前の西郷隆盛がこれに当ると落合は考えますが、わが曽祖父井口辰蔵も明治二十(1887)年に和歌山県那賀郡粉河村で生前葬式を挙げて下北半島の大畑湊に遷り、別名の小路口覺右衛門として長生きした、と聞いています。

 前傾拙著とシリーズ第七巻『三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』を併せて特別価格で販売します。理由は上述のように、タイトルでは解読部の内容が判らないからです。ちなみに第七巻の解読編の内容は大正九年の周蔵の満州からの帰国後のことで、周居應の別名で「帝国針灸漢方医学校」を開いていた王希天の実情について周蔵が観た通りを述べています。
 高級の工作員は偽装死してから次の人生に入るのでなく、生前に次の準備を整えているのです。わが曽祖父井口辰蔵(小路口覺右衛門)も亦然り。

令和5年10月31日までの特別価格にて販売。



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