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満洲の帰属を決めた辛亥革命の背景 11/18

〔89〕満洲の運命を決めた辛亥革命の背景
 辛亥革命が成功した要因が一つや二つではないことはいうまでもないが、決定的な要因を知る史家はこの白頭狸の他にいるだろうか。
 白頭狸がこの秘事を高松宮殿下の舎人から伝えられたのは平成十七年のことであった。國體秘事伝授の一環として高松宮喜久子妃殿下の舎人天雷无妄(仮名)氏を通じて伝えられたのであるが、今思うに、当時の天雷无妄氏は國體秘事の伝授先を選ぶためひそかに苦労していたようである。それは、単に伝授を受けるだけでなく、伝授内容を整理再構成して流布に堪えるものとすることのできる受伝者を選らばなければならないからである。
 國體秘事の受伝者として夙に(数十年前から)候補に挙がっていた白頭狸が、自身の金儲けに余念がないので機が熟すのを待っていたが、いつまで待っても進化しない白頭狸に業を煮やし、そろそろ見切りをつけかけた國體から、一応他にも候補者を捜すことを命じられていたフシがある。

 尤も、平成十三(二〇〇一)年を過ぎるまで国際政治の混乱を反映した不安定な状況が続いたため、國體の方でも國體秘事を伝授しているゆとりに恵まれなかったようであった。
 白頭狸のもとへ天雷无妄氏から國體秘事の断片が夥しく舞い込むようになったのは平成十五、六年からである。その流れの中で平成十七(二〇〇五)年七月二日に「辛亥革命の真相に関する」歴史断片が伝えられた。その時のメモの一部を原文のまま下記に転載する。
 
 日清戦争は清朝を救う戦争だった。しかし、すでに清朝は無政府状態だった。辰吉郎と孫文が現地入りし、清朝再興のために清朝の財産を預かった。清朝は辰吉郎に託した。金塊が主だった。
 その時は金本位制が発布される前後であり、金塊は絶大な威力を発揮した。その金塊はフィリピンに移された。現物は既にない。
 
 上記の文では述べていないが、「清朝救済」とは「満漢分離」のことである。狸が洞察するに、愛新覚羅氏が山海関を超えて支那に侵入し、明朝皇室の朱氏を滅ぼして大清帝国を建て北京に都したのはわが寛永二十二(一六四四)年のことで、ウエストファリア条約の締結により欧州社会で近代が始まる四年前であった。
 支那三億の民を支配する大清皇帝となった愛新覚羅氏は、康煕・雍正・乾隆と三代にわたり極盛の世をもたらすが、やがて六代皇帝乾隆が満漢分離を模索しだしたのは乾隆四十七(一七八二)年のことらしい。
 これは狸の洞察で、國體秘事伝授の一環として天雷无妄氏から、満漢分離策が早くも乾隆時代に芽生えていたことを教わった狸が、その時期を探って見当をつけたからである。
 そもそも國體の伝授はたいてい一、二言で了り、あとは受伝者が自ら史実を探り真相を洞察せねればならない。乾隆帝が四一年かけて完成した「四庫全書」の書庫として奉天に設置した文遡閣が乾隆四十七年に完成するが、その前後に乾隆帝が銀九万両を下賜したことを発見したから、その頃と思うたのである。

 他の三閣についてはこのような皇帝資金の下賜はないようだから、書庫の建造費は公費として出捐されたのか。とするとこの銀九万両は文遡閣の建造費でなく、同時に造設された宝物収蔵庫の建造費ではないかと狸は思う。
 ともかく北京入部から一五〇年も経たぬうちに満洲族の故郷東三省へ引き揚げる思案を始めた大清皇帝が、満漢分離の具体的実行に踏み切ったのはそれから一〇〇年の後で、本邦では明治維新の成功が明らかになった明治中期と思う。
 当時は現皇帝光緒(一八七一~一九〇八?)が幼かったため、先々代皇帝咸豊の皇后で先帝同治の母の西太后が帝室の実権を揮っていた。ゆえに満漢分離の具体策を練ったのは西太后と側近の李鴻章であったが、太平天国の乱の処理などを通じて信頼を寄せた李鴻章にイギリス王室が革命家孫文を紹介したことが支那革命の端緒となるのである。

 次いでイギリス王室が孫文を接近させたの南方熊楠では、孫文の来日をすすめるためである。ちなみに大英博物館が南方熊楠を学芸員として雇用していたのは国際天皇堀川辰吉郎の計らいによるものである。
 このように満漢分離策にはイギリスと日本のワンワールド國體勢力が根本から関わっていた。満漢分離策は満・漢だけでなく日・英を加えた四者が実行したもので、その成果が辛亥革命なのである。
 これまで史家が唱えてきた辛亥革命論は、土台の事実認識が根本から狂っていて、その決定的要因にまったく気が付かぬ史家たちが己の空想で構成したものに過ぎないのである。
 

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