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辛亥革命のモデルは明治維新 11/20

〔90〕辛亥革命の模範は明治維新

辛亥革命の結果成立した政体は共和制で、国号を「中華民国」と称したが、政権は巨大な三つの勢力の不安定な連衡体であった。
 三大勢力とは①革命家孫文が率いる南京臨時政府、②軍人袁世凱支配下の北洋軍閥、③馬賊棟梁張作霖が事実上支配する奉天軍権、これである。
 南京臨時政府を樹立した孫文は、乾隆二十六(一七六一)年に福建省の高渓廟で設立された秘密結社「洪門」別名「天地会」の元帥(総長)たる「洪棍」に就いていた。
 洪門天地会はもともと明末清初に形成された下層民の相互扶助結社で、会員には「客家」が多かった。客家とは漢族の起源をなす華夏族の末裔で、広東省の農家に生まれた孫文(一八六六~一九二五)もその一人である。洪棍に就いたことで支那民衆を代表して革命の指導者となったのである。
 天地会洪門は英語名を「チャイニーズ・メーソン」と自称するが、イギリス発祥の秘密結社フリーメイスンと組織上の関係はなく、ハプスブルク家が創始した秘密政治結社「大東社」とも組織的には無関係のようである。
 ただ洪門天地会が根本理念とする「同志愛による相互扶助」は中華社会の根底を流れる三大思想すなわち儒・道・墨のうち墨教に合致するもので、遡ればミトラ信仰の毘沙門(ヴァイシュラヴァンナ)が表す友愛・信義の思想になるが、イギリス発祥のフリーメイソンの友愛思想も同じ流れを汲むもので、さればこそ天地会洪門はチャイニーズ・メーソンを自称して憚らないのであろう。
 明治十一(一八七八)年にハワイに移住して兄のもとで初等教育を受けた孫文は、キリスト教の影響を憂うる母により明治十六(一八八三)年に連れ戻され、香港西医学院で医学を学んだ。
 マカオで医師を開業した孫文は政治に関心を深めて革命思想を抱くようになり、明治二十七(一八九四)年にハワイで「興中会」を起し翌年には広州で革命を企てるが失敗して日本へ亡命した。
 明治三十(一八九七)年に宮崎滔天の斡旋で玄洋社の頭山満と遇った孫文は以後、玄洋社から多大の援助を受ける。大東社の日本支部というべき玄洋社が孫文を援助したことは、ワンワールド國體が支那革命を志向していたことを裏付ける。
 ワンワールド國體の中枢をなす世界王室連合は十一王家の連合体と聞くが、その正会員でなく準構成員と思われる愛新覚羅氏が願う満漢分離すなわち中華本部からの撤退を、世界王室連合が承認したことは王室連合の実行機関たる大東社の日本支部玄洋社の支援を観ても確かであろう。
 世界王室連合の承認と支援のもとに満漢分離を果たしたのが辛亥革命で、愛新覚羅溥儀の宣統帝退位と中華民国の建国として具体化したのである。
 辛亥革命は日本では「支那革命」と呼ばれたが、中華の大地を揺るがす大規模な戦闘が各地で戦われたわけではない。宣統二=明治四十四(一九一一)年十月十日夜に発生した武昌起義に始まり翌年二月十二日の宣統帝溥儀の退位によって完了したのが辛亥革命で、大規模な革命闘争を経ないうちに、アジアで初めての共和制国家樹立という世界史的な大業を成したのである。
 革命の経過は、孫文影響下の革命軍が十月十日に武昌と漢陽を武力制圧し黎元洪を都督として中華民国軍政府の成立を宣言したところ、
清国軍が制圧できないのを見た各省が陸続として独立を宣言し、十二月二十九日に孫文が中華民国大総統に選出され、翌年二月十二日に宣統帝溥儀が退位して大清帝国は滅亡したのである。
 当時人口四億と言われた(統計なし)大国家が転覆するほどの戦闘が行われていないが、清国は転覆した。これに対する史家の説明が、「支那人が清朝の政治に飽きた」などとするのはごまかしで、正鵠を得ていない。
真相は、愛新覚羅氏の頭領で宣統帝溥儀の実父醇親王と國體天皇の堀川辰吉郎が日夜往来して満漢分離の具体策を図っていたのである。
 孝明天皇の皇太子で大室寅助に皇位を譲って堀川御所に隠れ住んだ睦仁親王の王子堀川辰吉郎が醇親王を幇助してその満漢分離工作を支援するために数年前から紫禁城に潜入していた。、
 堀川辰吉郎が明治維新を範とするよう醇親王に勧めたので満漢分離は大政奉還の形を採ることとなった。溥儀が十四代将軍家茂を、醇親王が十五代将軍慶喜を手本として役割を多少変更したのが辛亥革命の筋書きで、つまり戊辰戦争を手本としたのが辛亥革命であった。
 この洞察はさして難しくないのに、これをなした者が白頭狸しかいなかったのが不思議であるが、原因は明治維新の真相が隠蔽されてきたことにあるようだ。つまり薩長史観とその二番煎じの司馬史観の弊害である。
 明治維新の最大の功労者はいうまでもなく徳川慶喜である。ほんらい家茂が果たすはずの幕政の幕引き役を引き受けさせられた慶喜は堂々とその役を果たすが進退があまりにも見事だったので維新事情を説明する方便として創られた薩長史観が固まってしまい維新の虚像を形成することとなった。
 WWⅡの敗戦により日本が強いられた米主日従体制(対米従属国家体制)を合理的に説明するために薩長史観を再生したのが司馬遼太郎である。司馬遼太郎が持ち上げて維新の英雄とした人物の名はここで挙げる必要もなかろうが、その人を範として今後の政治活動を進めんとする人が多い。呵々。


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