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生活リズムがフリージャズすぎる

職業柄、休みがなかなか決まらない生活。

前日まで全くわからないこともざらにあるので休みはあまり期待しないようにしている。

遊ぶ約束をしても土壇場にどんでん返しなんてざらにあるので、わざわざ時間を合わしてくれる友人たちのありがたみが会うたびに増していく。

働き始めた頃は、学生時代まで慣れ親しんできた土日が必ず休みであるというサイクルが壊されたことに心身ともに追いついていなかった。
だが不思議になことに人間は慣れの動物と言うべきか、数ヶ月も経てばもはや安定したリズムがないこと自体が安定したリズムになっていた。

そんなところがフリージャズに似ているのではとたった今ふと思った。
とはいうものの、当の本人はフリージャズをあまり聴いたことがない。
オーネット・コールマンやセシル・テイラーの名盤、必聴盤の名前もあまり知らない。

高校の頃、家族に連れられ山下洋輔さんのコンサートを聴きに行ったことがある。当時の自分はまだジャズをそこまで知らなかったし、フリージャズというサブジャンルがあることすら知らなかった。当時の感想を率直に言うと「一体何を聴かされているのだろう…」という困惑に凝縮される。確かガーシュウィンの『ラプソディ・イン・ブルー』を弾かれていたのだが、私は生まれて初めてイスから飛び上がり打楽器のように鍵盤を叩く人間の姿を見た。
それは自分が今まで教えられてきたピアノの弾き方ではなかったし、その音楽性、芸術性を理解できなかったゆえ、思いがけない未知との遭遇にある種の恐怖を覚えた。
そのためか、フリージャズに対して苦手意識が芽生えてしまったのかあまり聴いてこなかった。

大学生になり本格的にジャズにハマり、様々なサブジャンルを勉強していた頃、またフリージャズと対面する時が来た。
『ラプソディ・イン・ブルー』の記憶がまだ新しい中、物は試しだとジャケ買いした一枚がある。

オーネット・コールマン『Ornette On Tenor』(1962)

一曲目“Cross Breeding”の、メロディを度外視した爆発的エネルギーのこもったコールマンのテナーと、ドン・チェリーのポケット・トランペットの音色に圧倒されてしまい、開始5秒でCDを止めてしまった。

次聴くのに2年はかかった。

安定しない生活リズムに慣れたように、フリージャズの、聴く者の耳を整形してしまいそうなリズムに慣れる日はやってくるのだろうか。

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