配信NO.11 地元の地理と歴史シリーズ5 寝屋川と野崎観音

 今回は少し北に離れますが寝屋川の歴史も見ておきたいと思います。
 
 森河内から見た寝屋川は住道周辺から曲がりくねりながら徳庵まで来て、そこから一直線に京橋へと流れているイメージですが、もともと寝屋川はこのあたりの河川ではなく、1704年の大和川付け替え前の深野池(大東市)に流れ込む上流側の河川を指しました。新開池以降は放出方面に南下、前回の旧楠根川+長瀬川に合流するため、寝屋川とは言いませんでした。その流れの名残はJR学研都市線の徳庵駅の西側にある北向きの一方通行に残ります。この道路が大阪市鶴見区と東大阪市の境界となっているのは、かつての川筋であったためです。

徳庵井路が掘削される

 寝屋川下流の歴史は1655年に徳庵井路(徳庵~京橋間)が掘削されたことに始まります。大和川付け替えの約50年前です。新開池の排水対策でしたが、結局1704年に大和川が付け替えられ、南からの流入量が減ります。そこで徳庵井路で住道方面からの流れを京橋へ向けて真西に流す方針になります。完成は1710年、そうして寝屋川として名称が改められました。しかし、その後もここは徳庵堤(とっかんつつみ)と愛着をもって呼ばれていたようで、そのことが落語「野崎詣り」の冒頭に伺えます。 

大和川の付け替えで長瀬川、楠根川、玉串川の流量が激減する
北からの流れを南からの流れと分離 そうして寝屋川と呼ぶようになる

 「野崎詣り」は大東市の野崎観音(慈眼寺)へのお詣りの道中の話です。大阪の馬合い2人が大阪城の前の馬場から京橋を渡り片町ときて徳庵堤(とっかんつつみ)にかかってくると、、、と舞台が描かれています。舟に乗りながら、河川堤防沿いを歩く他の参拝者と口喧嘩をするお噺。You Tubeに先代の桂春団治の動画が上がってますが、めっちゃ面白いです。

 野崎小唄に「野崎詣りは屋形船でまいろ どこを向いても菜の花盛 粋な日傘にゃ蝶々もとまる 呼んでみようか土手の人」とあります。
 5月の野崎詣りシーズンはさぞ、菜の花が綺麗だったんだろうと想像をしながら本稿を閉じたいと思います。

 しかし、野崎詣りって、この距離を歩く人もいたってことか。。。
(905字)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?