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「徒然の世迷言」 …「成年後見」の記事を書き終えて…「あとがき」のようなもの


 
「社会福祉支援」の集大成が「成年後見という福祉的支援」
ではなかろうか。

 そんな思いから「成年後見という 「福祉」のお手伝い(支援)」を書いてみた。

 

 「目の前にいる人」(社会福祉サービスのエンドユーザー)の過去にコミットし、生活(いま)を「ともに創造していく」ことによって、未来の「権利実現」を目指す

 

 人の生活にコミットするということは、その「環境」を構成する「地域・社会・政治」にも関与していくということであり、その人の「「人生」に関わっていく」ということである。

 

 僕は、(支援活動の現場では)少なくとも「政治への関与」は最小限にしてきた(気をつけてきた)つもりだった。それにもかかわらず、結局、ある種の「政治」に振り回されてきたように感じるのは、きっと 人の生活の中心にこそ「政治」が座っていたからだ。

 

 つまりは、そもそも「政治」から 逃げてはいけなかったのだ と、今更思う。

 

 第一、「一人ひとりの生活」(もちろん「僕自身」も含めて)は、そのものが「小さな政治」に違いない。「国を治める」という「政治」は、「一人の生活を治める」が出発点だ。それが「家族」になり、「地域」になりして、「社会」・「国家」となっていくのだ。

 

 そんな矛盾を抱えた故の不整合が、掲載の記事には、あるかもしれない。

 いい歳した「未熟者」と笑って治めてくださればありがたい。

 

 

 さてさて、入院して、辞職して、手術して、退院して(この間、ひたすら寝ておりました)、…「福祉引退」を宣言した僕が、今更「成年後見」なんかを持ち出して、記事にしてしまった。

 

 そして、「福祉には卒業なんかあり得ない」ことに気づいてしまった。「生活福祉研究所」を名のっていた僕が、そんなことにも気づかずグズグズしていたのは恥ずかしい限りでしかない。

 

 僕自身が「人生をあきらめない」限り、つまり「生ききりたい」と願う限り「セルフ・サポート」は続く。どのように優れた支援者も最後は「セルフ・サポート」で完了していく(もちろん、周囲のサポートももらいながら)。

 

 

 「社会福祉支援の集大成」としての「成年後見」について、一通り記事にしてみて、これからの課題も「大きい」と改めて感じている。

 

 70歳を越えて、現場への口出しは控えようと思いつつ、「僕にできること」を真剣に考え直してみようとも思う。

 

 それは、もしかして「成年後見」というより「権利擁護」なのかもしれない。

 

 

 そんなわけで、僕がこれから関わる「福祉的支援」がどのようなものになるのか、いろいろ考えてみるのもいいか…と思えている。

 

 今、考えている「ジオパークガイド」(「ジオパークにはまってしまった」のあれ)も、地域や社会にコミットし、僕たちの生活を、生活感性のレベルから再構築していくという「ジオパークのパーパス」まで掘り下げると、これも「福祉」、あるいは「社会福祉」の領域に重なっていくのだろうと思えてくる。

 

 

こじつけか⁇⁇ 

「こじつけ」なら、こんなこじつけも面白い。

しばらく「年寄りの世迷言」を並べてみようかと…

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