「心を耕す」とは比喩ではない

大学時代にラテン語を教えていただいた先生に紹介された文章のなかに、キケロ―の印象的な一文があります。

Cultura animi philosophia est. (哲学とは心を耕すことである。)

 私はこの一文を読んだ時、『ブッダの言葉・スッタニパータ』の『田を耕すバーラドヴァ―ジャ』の章を想起しました。少し長い章なので要約すると、バーラドヴァ―ジャというバラモンが耕作に勤しんでいるところに、ブッダがやってきました。バーラドヴァ―ジャは、厳しい農作業のあと炊き出しを行いました。すると、ブッダもまた炊き出しの列に並びました。怪訝というか不快に思ったバーラドヴァ―ジャはブッダに訊ねます。

「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします、あなたが耕作するということを、われらが了解し得るように話してください。」と。
 ブッダは答えました。
「私にとっては、信仰が種である。
苦行が雨である。
智慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。
慚(はじること)が鋤棒である。
心が縛る縄である。
気を落ち着けることがわが鋤先と突棒とである。
わたしは真実をまもることを草刈りとしている。
努力がわが牛であり、安穏の境地に運んでくれる。
退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。
この耕作が終わったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
 それを聞いたバーラドヴァージャはブッダに言いました。「ブッダ、あなたは耕作者です。釈尊は甘露の果実(みのり)をもたらす耕作をなさるのですから」

このブッダの言葉によく類似した言葉は他の時代にも頻出するのです。
 
 江戸時代初期の陽明学者・中江藤樹はこんな言葉を遺してします。
藤樹先生の言葉(4)
【善をなすは耕耘のごとし。】
「善行というのは、あたかも汗水をながして、田畑を耕すようなものです。すぐに収穫することはできませんが、季節になればちゃんと実り、耕した人やその家族のくちに、おいしいものが入るのです。」

さらに、二宮尊徳もまた『心田開発』という考え方を遺しています。
 これらの例から考えると、「心」のなかにも「田」が存在するということでしょうか。いえ、これは単なる比喩でないと私は考えます。フロイトやユングが無意識や深層意識を発見する遥か以前に、大乗仏教の唯識思想では、【深層心】という領域を発見していたのです。それによると、普通の私たちは【表層心】しか感じ取ることはできませんが、ヨーガ(瞑想)や精進によって、やがて【深層心】に意識が届くようになると、唯識思想は考えるのです。
 ここで、最初のキケロ―の言葉に戻ると、心を「耕すこと(cultura)」のculturaとは現在の「教養(culture)」の語源なのです。それが「哲学(philosophy)」に等しいと、捉えることができます。そして、実際の耕作が苦行であるように、心の田を耕すことも、精進を要する作業なのです。
 現代、ほとんどの農家がトラクターで田畑を耕しているように、ブッダや中江藤樹のように、心田を耕し、【深層心】にたどり着いている人物は少なくなっていると思います。

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