中島敦『弟子』:利用価値と存在価値

司馬遼太郎は『ロシアの脅威』というエッセイの中で、第二次世界大戦当時の日本軍の状況について次のような分析をしています。
「ところが、それより上にいくと、非常にグローバルにものを見なければなりません。将軍のことをゼネラルといいますが、総合者の意味ですね。諸価値の総合者という意味です。将軍は日本軍にも階級としてはいました。しかし、諸価値の総合者はいなかったのではないか。 」
司馬遼太郎はこのように述べ、当時のGeneralの不在を指摘します。つまり、スペシャリストはたくさんいたが、それらを束ねる将軍がいなかったということです。
ここで注意したいのは、Generalというと、あらゆる武術・武芸に通じている人物と捉えがちですが、そうではないのです。人間の活動すべてにまつわる分野において、豊かな経験を積んだ人物こそがGeneralなのです。この点について、中島敦の『弟子』という短編に面白いくだりがあります。

「しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しく初めて見る所のものであった。闊達自在、いささかの道学者臭も無いのに子路は驚ろく。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑しいことに、子路の誇こる武芸や膂力においてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆を抜ぬかれた。放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻らずにはいられない。とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云いっても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。」

中島敦の『弟子』は、孔子の弟子、子路の目線から孔子を捉えた文章です。このなかで大事なのは、孔子にあるのは「利用価値」ではなく「存在価値」であると述べられている点です。そして、「放蕩無頼の生活にも経験があるのではないか」と思われるくらい、多様な経験に身を置いている、ということです。この「利用価値」ではなく「存在価値」があるということがGeneralの条件であると言えます。まさに、「諸価値の総合者」です。

現代の教育は、「スキル」を身につけることが優先され、もっと根本的な「人格」の陶冶がなおざりにされている感があると思います。結果として、社会を俯瞰的に見るゼネラルがいないという状況が続いているのではないでしょうか。

新島襄の言葉に、
「教育の目的は人材の養成にあらず、人物の養成にあり。」
という一文があります。「人材」と「人物」。微妙な言葉の違いですが、教育の本質を表していると思います。
General不在の社会は危険なものです。再び、日本が進むべき道を誤らないためにも、「人物」を養成する教育が急務であると考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?