伊豆江川家古民家の歴史
伊豆韮山の江川家は室町時代創建とされ古さと広い土間、貫構造の小屋裏、掘立柱など珍しい作りで知られる古民家。江川家のルーツはというと、平安時代の源満仲の子頼親。二週ほど前の大河光る君へで、興福寺の僧たちが御所に押しかけ、源頼親を罰せよと藤原道長に迫るシーンがあったけど、その人物となる。源頼親は大和国に権益を持ち大和源氏と呼ばれた。だが平安末に平家とあらそい伊豆に逃れてきたようで、鎌倉時代には宇野氏を名乗った。で、頼親の弟、頼信が河内源氏の祖、源義家、義朝、頼朝の先祖となる。後に頼朝が流されて住んだといわれる蛭が小島は江川家から散歩圏内みたいな位置にある。大和源氏宇野氏は源頼朝、川向こうの北条氏と反平家の思いを共有し、旗上げを助けたようだ。宇野氏は鎌倉時代にはたいして活躍しなかったようだけれど生き延び、後北条氏、徳川幕府に仕えた。江戸時代になって江川氏を名乗りこの地の代官を務めた。幕末の江川英龍はさまざまな技術に優れ、ペリー来航に先んじて反射炉を作り大砲の鋳造を試みた。
さて古民家江川家はというと、広い土間に掘立柱が象徴的に立っているが、これは構造的にはたいして意味がない。その周囲の4本の柱が母屋、つまり屋根まで伸び、たくさんの貫が四方に伸びている。民家の屋根裏は物置や養蚕のために使われることが多いけれど、ここではそのようには見えない。土間の広さといい他にこういった古民家は見たことがない。多段の貫といえば思い浮かぶのは東大寺など重源がもたらした大仏様。以上のような宇野氏、江川氏の出自を思うと、大和源氏と呼ばれた来歴を表象するように、重源の様式を自分たちなりに建ててみたのではと思えてくる。時代を読み、技術を取り入れて真っ先に波に乗る、といった気風がこの一族には流れているのかも。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?