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【創作百物語】 一月十日のシェヘラザード 第五夜目『イリムコ』


『イリムコ』 (くだんを喚ぶまで残り九十五夜) 


珍しい昆虫がいるという報告を受け私は小さな村に来た。
大学での研究発表を間近に控え、文献での調査に限界と煩わしさを感じていた自分にとって、それは吉報だった。
村は最寄りの駅から歩いて30分ほどのところにあった。
駅に到着する途中、二両しかない電車の中から小さな桟橋を渡る時に一瞬見えたが、木造建築の小さな家がわずかに並ぶだけの小さな村だった。
私は村に着くと自治役場に顔を出し、あらかじめ予約していた宿屋へと向かう。それからすぐに準備をし山へと向かった。

「こんちよぉ」
山へ向かう途中、畦道で数名の子供が私に向かって声をかけた。
それぞれ手を高く降り、私に笑顔を向けていた。
私は小さく会釈して、軽くはにかんで見せると、その場をすぐに後にした。

「こんちよぉ」
山の麓で小学生くらいの少年に声をかけられる。釣竿を肩にかけ、素手で大きな魚を握っている。
「…こんにちは」
私がそう挨拶をすると、少年の顔から笑顔が消えた。キョトンとした顔を浮かべ、そのまま何も言わずに走り出して消えていく。

私は昆虫を採取するための罠を張りながら、少年のあの顔を思い出していた。
「……もしかしたら、私の話し方を不思議に思ったのかもしれない」
今思えば、彼らの「こんちよぉ」という言葉にはこの村独特の訛りがあった。抑揚のない平坦な言い方が、気になっただろうと私は思った。

太陽が地平に沈みかけると、あたりはすぐに暗くなっていった。私は背中に大きな夕日を受けながら、足早に宿へと向かう。

「こんちよぉ」
日に焼けた少年が私に手を振っていた。
「こ、こんちよぉ」
私は少年と同じように、手を振り返しながら大声でそう言った。

すると、少年は大きな声で腹を抱えて笑い出したのである。

「なんで、おじさんが、『こんちよぉ』って言うんか」
「え…挨拶でしょ?」
私は気恥ずかしい思いを押し殺しながら、少年に聞き返す。
「えんや。違う……『こっちよ』って、よんどるだけ」
「こっち?おじさんを呼んでるの?」

少年は笑顔を浮かべながら、ゆっくりと私の背後を指す。
「もう、来るよ」

少年の指差す背後を見る。その時、私が先ほどまで居た山の中腹で、白くぶよぶよとしたビニールのような物体がサッと木の陰に隠れたのである。

気づけば私は走り出していた。
明らかに、アレは人ではない。まして、動物でもない。
なのに生きているナニかであることはすぐにわかった。

宿の自室で布団に包まり、わずかに動く影にも怯えながら一晩を明かした。

しかし、その後にそれらしき何かを目撃することはなかったのである。次第に私は自分の記憶も疑わしくなり、見間違いであったと思うようになった。

結局、私が帰る時になるまでそれを見ることはなかった。

私は最寄りの駅で電車に乗った。電車は行きと同じ二両の電車で、私以外に乗客はいなかった。
電車が進み始め、次第に私が滞在した村が見えてくる。
その時、桟橋にはいつかの子供たちがこちらに手を振っているのが見える。

私は電車の窓を開け、少年たちに手を振り返した。少年たちが近づくにつれて、彼らが何かを叫んでいるのが聞こえる。

「…お……い…わに」

なんと言っているのか。

「おし…………わに」

少年たちは笑顔を見せている。
私は少年たちの笑顔に不穏な空気を感じ取っていた。

「おしあわせに」

少年がそう言ったのが聞こえた。
困惑した顔を隠せないまま少年を目で追っていると、その視線はゆっくりと、電車の反対車両へと向かっていく。


すると、
白くぶよぶよとしたビニールのような物体がサッと座席の陰に隠れたのである。

「お幸せに」

少年の声が聞こえた。


『おやすみ』

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