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曇りと豆乳、鳩、からす

 連日の雨のせいで洗濯物は浴室で乾かすよりほかなく、ハンガーを掛け終わった浴室は濡れた洗濯物の群れでひしめきあっていた。湿った密度が乾燥した浴室を支配していた。天井の換気扇がせわしく回る音に急き立てられるようにして浴室を出た。

 部屋の外に見えるアパートの屋根で白い鳩がじっとしていた。青空の中に浮かんだ白雲みたいな清潔さだった。その白さを経由して、ふと彼女のことを思い出した。星野円ほしのまどか、同じ学部の髪の明るい子だった。星野は白い服を好んで着ていた。そしていつも僕に話しかけてきた。

「豆乳は体にいいんだよ」

 あるとき星野はそう云って、僕に豆乳を手渡してきたことがあった。豆乳は飲んだことがなかったけれど、礼を言って受け取った。内心嬉しかった。季節は夏で、星野はそのときも白いTシャツを着ていた。胸許にあしらわれたちいさなミニトマトの刺繍がかわいいと思って、伝えようとしたのだけれど、やっぱりやめたのだった。胸許を見ていると思われるのが恥ずかしいと思った。

 今思えば、苦手なものを押し付けられただけなのだろう。豆乳はすこぶる甘かった。

 煙草を買いに外へ出た。音のない雨が霧のように降っている。道沿いの雑草から青い匂いが立ち昇っていた。

 歩道脇に集められた黄色いゴミ袋のネットを二羽のからすがつついている。彼らの羽根はすでにじっとりと重たく濡れていて、ごみ袋から漏れた食べ滓をつつき出す彼らがこちらの視線をせわしく気にするたびに、濡れた体が黒から紺へ、紺から黒へとしきりに色を変えた。先ほど啼いていたのは彼らかもしれないと思った。

 部屋に戻ってストローを挿した。豆乳のつめたい甘さが鼻から抜けた。相変わらず甘ったるいのが懐かしかった。
 あのとき、僕は星野に告白するべきだったんだろうか? わからなかった。もう遅すぎた。
 窓の外、アパート屋根の鳩はもういない。それでも雨雲は広く重たく、雨はもうしばらく降りそうだった。

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