『花に埋もれる』 月一読書感想文 10月
『花に埋もれる』 彩瀬まる 2023年新潮社
『女による女のためのR−18文学賞』受賞作『花に眩む』・英文芸誌『GRANTA』掲載作『ふるえる』が収録されたベストアルバム的短編集となっている。
恋人の身体よりもソファーの肌触りを愛する女『なめらかなくぼみ』
愛した女の首筋が翳っていくのを目にすると、美しい植物の茎を奥歯で噛み潰しているかのような、うす暗い官能が脳に広がって行く『二十三センチの祝福』
己の恥が小さなカタツムリの姿となって、体からこぼれ落ちる恋人たち『マイ、マイマイ』
恋する心が結晶し美しい石となってその人を蝕んでいく『ふるえる』
肌に植物が芽吹き、根を張り侵食し、やがて人の肉体は植物の間でもろもろと崩れ、花と草の塊となり土に還る。それが人間の老化という世界『花に眩む』
幻想的で美しく官能的、そして僅かに香る人間の狂気。現実と非現実の境界線が淡く滲む世界観の物語たちに、わたしたちが気がついていない日常に忍び込む異質な物の気配を感じさせる。
その中から『マグノリアの夫』を紹介したい。
主人公の陸は創作だけで食べて行く事が出来る専業小説家であり、反対に夫の郁人は活躍が出来ない舞台俳優である。
そして夫の郁人は、大物作曲家ヒヨシの隠し子という決して公表してはいけない秘密を抱えている。
郁人は父親と同じ表現者として名を馳せ、それをもって父親を振り向かせたいという密かな目標を持っているが、陸はそんな夫の表現者としてのモチベーションに疑問を抱いている。
お互いがお互いを1番の理解者だと思い、守り合いながら10年が経ち、郁人は舞台の上で木蓮の花を演じている。
文字通り何かが「降りて来た」郁人は、観客が本当の木蓮の樹だと誤認する程に役を極め舞台を演じ切り、最後は人間の姿を脱ぎ捨て本物の木蓮の樹と化す。
夫が本物の木蓮と化した後も、2人の生活は変わらず穏やかに幸せに過ぎていった。
この期間が主人公にとって1番幸せだったのではないかと思う。
木蓮と化した夫を守り愛でる。この異常事態を受け入れられるのは自分だからであり、お互いにとってお互いが特別な存在であるということを強く感じる事が出来たのだと思う。
しかしそんな日々も、木蓮の夫と父親のヒヨシの対面によって簡単に崩れ去ってしまう。
婚外子の息子の存在など覚えていないだろう父親が、偶然に出会った木蓮の姿の自分を『美しい物』と認識しさらに自分の姿をインスピレーションを受けた作品が出来上がったと知ると、木蓮の夫は喜びのあまりに新たな枝を伸ばし、次々と花を咲かせ散らし咽び泣いた。
長年の夢だった、表現者としての自分の姿を父親から愛される、という念願が叶ったからだ。
しかし主人公はそんな夫の姿に、胸が悪くなる程の苛立ちを覚える。
特定の誰かに愛されるための表現など意味はない。誰に認められずもやり続けるのが本物ではないかと。
あれほど美しいと思っていた木蓮の花は、もう幼稚なおもちゃにしか見えなかった。
長年の願いが叶い、喜びに溢れる夫の心は、無防備にさらされた状態だったのだろう。そしてそれは、世の中で最も信頼している妻の前だったからでもあろう。
妻からの悪意ある残酷な言葉は、柔らかな木蓮の樹を引き裂くのには充分だった。
要は嫉妬、なのだと思う。
10年以上連れ添い、木蓮の花と化すことで表現の極みを手に入れた夫を喜び、そんな自分は、自分こそが、彼の特別なのだという強烈な自負。
それをただ一度目にしただけの男が、勝手にインスピレーションを沸かせ、たまたま表現に使っただけの事。なぜそんなに喜ぶ必要がある?
身を震わせ歓喜する夫の姿に、主人公は腹の底から競り上がる真っ黒な残酷さを抑える事が出来ずに、夫が1番傷付くであろう言葉を投げ付けた。自分の方が正しい、という確信の元に。
『わたしの方が正しい』
とても愚かで自分勝手で、そして誰もが密かに抱いている刃のような感情。
愛する人の前だけで見せた弱みを非難され、木蓮の木は雷に打たれたかのように真っ二つに裂けて息絶えてしまった。
主人公がどれだけ後悔し、泣き謝っても、もう木蓮の花が咲くことはなかった。
『誰にも愛されなくても、それをやり続けるのが本物じゃないか』
夫に投げつけた呪いは、自分に返ってくる。
主人公は生きているのか否か分からない木蓮の夫を連れて、進み続けて行くしかない。一瞬の嫉妬のために失ってしまった愛がいつかは再び芽を持ってくれると願って。
夫に再び愛されるため進んでいく主人公の姿は、結局特定の誰かに愛されようと表現を続ける矛盾の中で生きていくのだろう。
憧れ、執着、渇望、独占欲…愛の様に見えて、本当は愛とは違う。
そして愚かにもわたしたちは、それを愛と錯覚して、まるで世界の色が変わった様に感じる。
どこかでそれを望む自分にヒヤリとさせられた。
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