本当に面白いアニメってなんだろう?というお話を、時々アニメとお笑いの文化を比べながらやってみる

こんにちは。三度の飯よりフライドチキンです。
たまに意見を吐き出す場所を作りたくて、今回noteを始めてみました。纏めるのが下手なので長文になりがちですが、たまにでも読んでいただければと思います。
これからよろしくお願いします。

記念すべき最初のお話は、タイトルの通り「面白いアニメ」とはなんだろう?というお話です。

ファミレスにて

先日、2年間通っていたアニメの専門学校の卒業式がありました。
式が終わった後いつもつるんでいるグループでどこか行こうとしたところ、あまり会話したことの無いコミュ力だけ高いタイプの陰キャ(以後Kとします)が割り込んできて、結局向こう側の4人も交えて計8人でサイゼに行くことになりました。

特にそのKとも話したくなかったので、何となく距離を取って他のメンバーと話しながらサイゼまで歩き、着いた後もKの相手を他の人に任せ、僕はKとは違う4人テーブルに座りました。
しばらくするとK側のテーブルがやたら盛り上がってきたので、メニュー裏の間違い探しをしながら少し耳を傾けると、「最近流行るアニメは中身がない」という話をしていました。

その時、表には出しませんでしたが、頭の中で何かが切れた音がしました。

Kの言い分とネットの意見

盗み聞きした範囲でKの言い分をまとめると
・面白いアニメとは「中身」があるアニメを指す。
・近年、「中身」のないアニメが流行っている。
・「中身」のないアニメは過大評価されすぎている。
・そのせいで真に評価されるべきの「中身」のあるアニメが埋もれている。
というようなものでした。

これらの意見は、何もKだけにとどまらず、ネットの各所で言われていたことでした。僕はアニメや漫画などは自分で感じたものを大切にしたいタイプなのでツイートや感想のまとめ動画を見たりすることは少ないのですが、僕独自のフィルターをかいくぐって顔を出すぐらいには白熱した議論がされていました。

特に最近は、「チェンソーマン」や「進撃の巨人」、「呪術廻戦」など、緻密に組まれたシナリオや伏線を楽しむ作品が比較的長期に渡って流行る一方で、「ぼっち・ざ・ろっく」、「リコリス・リコイル」など、キャラクターの魅力を全面的に押し出した作品が爆発的に流行ることが多いため、一方を受け入れられても他方を受け入れられない層がぶつかり合うことが多いみたいです。

何となく察しはついているかもしれませんが、Kはシナリオや伏線を楽しむタイプで、キャラ主体の作品を受け入れられないタイプでした。彼の言う「中身」は、作品に内包されたシナリオの緻密さと、客の想像を絶するような良い意味での裏切りや伏線回収などのギミックを指していたんですね。とはいえ、Kも「ぼっち・ざ・ろっく」は映像のユニークさで評価してはいましたけど。

まぁ、その「中身」の定義がまずどうなんだって思ってしまうんですよね。じゃあそれらが無いものは全部空っぽの駄作なのか?って話です。そもそもの話、「ぼっち~」にも「リコリス~」にも、「進撃」程では無いにせよシナリオの縦軸はあったし、驚かせるような場面はちらほらありましたしね。
そういう極端な話を頻繁にするのでKが苦手なんです。「極端な話さえしてれば、センスあるやつだと思われるんでしょ」という浅はかな考えが話の各所で滲み出てるんですよ。

さて、ここからは、僕が思うアニメの「面白さ」の定義と、僕が考えるアニメの正しい評価のあり方について話していこうと思います。

アニメの面白さは「凄い」と「楽しい」に分類できる

もう、これが答えなんです。

先程の話で出したシナリオを押し出している作品と、キャラクターを押し出している作品はどちらも等しく面白いと評価されるべきものです。

Kの言う「中身」の無いアニメにも、成分が違うだけで「中身」そのものは存在してはいるということを、声を大にして言いたい。

まず、「凄い」アニメというのは、シナリオや映像のクオリティ、至る所に仕組まれた伏線を中心に魅せていくタイプのアニメです。
僕の好きなお笑いに例えると、コント界で言うところのバナナマンや東京03です。

次に、「楽しい」アニメというのは、キャラクターの魅力、視聴していく中での癒しを中心に魅せていくタイプのアニメです。中には、作品の中で偶発的に、悪く言えば事故を経て発生したものを楽しむものもあります。
コント界で言うところの、ランジャタイや、ビスケットブラザーズみたいな感じです。

ただ、注意しておきたいのは、これらが明確に2分化されておらず、境界線も曖昧という点です。実際にアニメを評価していく上で、「凄さ」と「楽しさ」は1作品の中で混在することも多かれ少なかれあるということを忘れてはいけません。

また、「凄い」アニメと「楽しい」アニメのどちらが果たして本当に評価が高いのか、という問題も考えるべきでは無いと思います。そもそも土俵が違うわけで、優劣をつける必要性を感じません。
個人の中で「こっちの方が好き」と思うのはもちろん構いませんが、それを他人にも強制したりするのはお門違いだという話です。人によって感性が違うのは当たり前で、どちらを好きになろうがそこに他人が関与する余地は全くありません。

単純な数値化より、誰が評価したかの方が説得力が得られる世の中

アニメ界隈では、「覇権」という言葉がよく使われます。「賞レース優勝」みたいなものです。
ファンそれぞれが勝手に審査員になり、3ヶ月という期間の中で放送されたアニメの中から1番面白いアニメを決めて「覇権アニメはこれ」とツイートしたり、ネットに書き込んだりするわけです。で、これらの観点がそれぞれの好みによって違うので度々論争が起きるわけです。

お笑いもアニメも好きな僕が変だと思うのは、評価がある程度数値化できるアニメの方が、数値化が難しいお笑いに比べて1番を決めるのに簡単で誰もが納得する結果が得やすいはずなのに、1番を決めるのに時間がかかるし、結局1番は決められないという点です。

アニメがお笑いより数値化が簡単なのは、アニメという文化がお笑いよりもお金(ビジネス)に直結してるというのが大きいです。
アニメは作品を作る上で億単位の莫大なお金がかかります。どんな作品でも一般的な尺であればそれなりにお金はかかっています。その為、制作費を回収するために物を売ったり、何かとお金を発生させます。その中で大きな役割を果たすのがDVDやBlu-ray(いわゆる円盤)でした。

おかげで売上枚数を「人気の指標」とすることができ、作品ごとの枚数を比べて「覇権」を決めることが出来たわけです。
最近は円盤の文化も廃れつつあり、代わりにサブスクや配信の再生回数や人気ランキングを指標にするようになりました。
どちらにせよ、数値化は至って簡単で、評価の仕方もシンプルなはずなんです。

しかし実際は、「覇権」を巡る争いに終止符が打たれたケースはとても少ないです。満場一致で1つのアニメに絞られるのを見たことがありません。

1つ目の要因としては、指標に権威が足りていないことが挙げられます。
お笑いではいわゆる「レジェンド」と呼ばれるような人を数名審査員として招集し、彼らが生で作品を見た後に、それぞれの観点で点数をつけたものを合計して、その合計点で1位を決めるというやり方が一般的です。
その為、「こっちの方が面白かった」という意見は発生するにせよ、大衆的には「この人が言うんだから間違いは無いだろう」となり、納得させることが出来るわけです。
一方でアニメにおいては、多種多様な客の意見をまとめることになるので、早い話「所詮素人意見だから」で片付けることが出来てしまい、説得力を持たせることが不可能になってしまいます。

2つ目の要因としては、単純にランキングの1本化が出来ていないということが挙げられます。
ランキング自体は存在するものの、それらはアニメを扱うニュースサイトやファンサイトがそれぞれ独自に作ったものになるので、そのサイトのユーザーの好みがどれぐらい偏っているかによって結果が変わってきてしまいます。

アニメもお笑いの賞レースのように、レジェンドを数名呼んで彼らに作品を見てもらってランキング付けをしてもらえばいいとは思うのですが、庵野秀明、宮崎駿、新海誠、細田守といった人を呼ぶのがまず不可能に近いし、アニメを全作品見るのも時間的に難しいし、とても現実的ではありません。

よって、誰しもが納得する形でアニメのトップを決めるというのは不可能であり、諦めた方がいいという結論になってしまいます。
今後も、アニメのランキングは「個人的評価」の域を出ないと思います。

本当に、真に面白いアニメは埋もれているのだろうか?

Kの言い分として、もう1つ、過大評価されている作品のせいで、真に評価されるべき作り込まれたアニメが埋もれているという話がありました。

確かに、シナリオや仕掛けにこだわった作品が、それらよりもキャラクターを重視する作品よりも話題性に欠けてしまっているという事実はありますし、残念ながら、作品単体としてではなく、相対的評価をされてしまって話題になりづらかった作品もあります。

しかし、その現象が本当に100%間違いであると断言できるのでしょうか?

先程、僕はアニメという文化にはビジネスが密接に関わっていると言いました。答えはそこにあります。
単刀直入に言うと、「どれだけ作品の視聴者層や世間のニーズに応えられたか」ということです。
作品を作り、その対価としてお金をいただくというビジネスのやり方をしている以上、世間の求めるものを出していかないと儲かりません。

直近では、映像やシナリオにこだわった「チェンソーマン」が、音楽をテーマにして個性的なキャラ同士の繋がりや、人の魅力を押し出した「ぼっち・ざ・ろっく」に食われたということが起きました。

この一連の流れには、「チェンソーマン」が芸術性を重んじる余りに原作から改変して原作の読者から背を向けられた一方で、「ぼっち・ざ・ろっく」が四コマの世界を上手く拡張して、アニメで出来ることをとことんやったことで、原作ファンのみならず、アニメから知った人達や音楽好きからの評価も得られたことが大きく関係しました。

つまり、「ぼっち・ざ・ろっく」はニーズに応えられたが故に「チェンソーマン」よりもいい評価を得られたのです。過大評価でも何でもなく、ただ単純に、見る側に求められたものをしっかりと届けたからこそ評価を受けたのです。

では、こだわりを注ぎ込んだ「チェンソーマン」は今後も日の目を浴びることはないのでしょうか?努力は無駄だったのでしょうか?

僕は決してそうは思いません。なぜなら、物には流行り廃れが必ず存在するからです。

もし今後、「チェンソーマン」と同じように映像などにこだわった作品がヒットした時、同じ性質を持った「チェンソーマン」も一緒に評価される可能性が十分にあるからです。俗に言う「再評価」というやつです。また、これには時間を置くことで今まで叩いていた原作ファンが冷静に作品を見ることができ、嫌いだと思っていたものを好きだと思わせることが可能という利点もあります。

近年では、サブスクが普及したことで、過去作品を低コストで振り返ることがだれでも簡単に出来るようになりました。
また、業界内で権威を持つ人が過去作品を振り返る中で面白さを再発見して何かしらの形で発表した際に、それを見た人が同じような経験をして評価を変えるということもあるかもしれん。
要するに、たとえ一時的に失敗してしまったとしても、時が流れて世間が作品に追いついた時、一転して成功するというケースも考えられるということです。

よって、Kの言うように埋もれているとされている作品も、いつか発掘されて日の目を浴びる可能性は十分に有り得ると考えます。

それぞれが自分に合った作品を楽しむという行為そのものを大事にするべき

ここまで色々と考えてきましたが、アニメの面白さには種類があり、そのどちらを重視するかや、どこに面白さを見出すかに個人差があり、さらに誰もが納得できる1位を決めることが出来ない以上、結局「それぞれの1番を大切にして気楽に楽しむ」ことが最善なのではないかと考えました。

テレビプロデューサーの佐久間さんや、東野幸治さんがやられているように、それぞれが自分の好きな作品を自分の中でランキング化して楽しむ、みたいなやり方が1番の楽しみ方という訳です。

時に人と感性が違うが故に、世間の評価と自分の評価が噛み合わずに苦しんだり、Kのように価値観を押し付けてる人の意見に苛立ちを覚えることもあるかもしれませんが、面白いと思う感覚や価値観が違っていて当たり前なのだから、それらに流されずに自分が面白いものを大切にして楽しむしか道は無いんです。

読んでいる人の中に、レビューや評価ばかり気にしてしまって純粋にアニメやエンタメを楽しめていないと感じている人がいるかもしれません。そういう人は、1度ネットと自分とを切り離して、自分の世界のみで作品を見てみることを試してはいかがでしょうか。

まぁ、Kがそういう考えに辿り着いたとしても、「アニメ業界で働いてる人はみんなクズだと思ってる」と発言していた時点で、今後Kとは関わりたくないし、LINEのブロックも解除しないんですがね。

長文失礼しました。ここまで読んでいただきありがとうございました。

また何か書くことが見つかれば投稿したいと思います。


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