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インパール作戦とは何だったのか?【リメイク前】

インパール作戦の認識は日本と英国で異なる。それも対照的とも言える。コヒマの戦いは「東のスターリングラード」と呼ばれ、英国の歴史家ロバート・ライマンは「イギリス軍が戦った中で最も手ごわい敵との戦争には、大きな危機があった」と述べており、日本軍と対峙したイギリス第14軍司令官スリム中将も作戦会議の際に「今後5日ないし10日が危機だ」とも述べた。なのでコヒマの戦いを解説したいが、まずはインパール作戦から解説したい。

インパール作戦の始まり

中将時代の牟田口蓮也

インパール作戦の起源はビルマを平定した後の1942年8月下旬に大本営は東部インドへ侵攻する二一号作戦である。ただし、二一号作戦とインパール作戦は同じではないものの、インパール作戦は二一号作戦を根幹としてビルマ情勢に合わせて作られたものである。大本営は二一号作戦を意見具申を南方軍の第15軍に意見具申した。目的は援蒋ルートの遮断である。同年5月にビルマを占領したことによって援蒋ルートは全て立たれたのであった。しかし、東部インドに撤退した連合軍のアメリカはこの援蒋ルートを重視しており、インドのアッサム地方でレドに飛行場群を急造させ、「ハンプ(Hamp)」と名付けた空輸作戦で険しいヒマラヤを越え、厳しい航路と輸送機不足によって月平均500トンを輸送した。ただし、これは通常の援蒋ルートの基準不足である。大本営にとって援蒋ルートとは、日中戦争を泥沼化させたある意味忌み嫌うものであった。その為、日本軍にとって援蒋ルートは戦略的価値を持つものであった。しかし、二一号作戦を第15軍は拒否し、当時師団長であった牟田口廉也も含まれていた。そして、彼らが拒否した理由には一理あった。第一に新軍の困難さである。ビルマ・インド国境にはビジュー系山とヒマラヤ系山が南北にあり、チンドウィン河や交通網の整備不足、雨季になれば5月-9月まで行動不可能でチンドウィン可が濁流になり、更には人口の少なさにより現地調達では進軍は困難である。牟田口は当時第15軍司令官の飯田祥二郎に作戦の聴取された際に以下のように述べている。

「慎重に検討した上でなければ責任のある解答はできないが、一挙に東インドまで進出しようとするこの案は、後方整備の関係、特に兵站道路の構築、補給体系の確立準備などの観点から見て、あまり時間的余裕がなく、現実の見込みはないと思う」

関口高史『牟田口廉也とインパール作戦』138項

牟田口はこのように的確な指摘をしていた。そしてこの発言は主に後方における支援について主に重視した指摘である。しかし、飯田の性格上、牟田口と戦争初期から反りが合わず、この事は南方軍の間で有名であった。更に牟田口はこの指摘によって21号作戦が中止されるのではないかという罪悪感をの後に回想している。1942年9月5日に大本営はそれに配慮したのか、二一号作戦を延期、そしてビルマ情勢においてそもそも連合軍がどこから攻勢を実施するかわからないなど、情報がつかめなかったことにより12月3日に正式に「中止」された。この事について牟田口はこのように回想した。

「自分ば軍職について初めて消極的な意見(二一号作戦に対する反対意見のこと)を述べてしまった。私が消極的な意見を言ってしまったがために南方軍と大本営の希望を覆し、第15軍の戦意を疑わせ威信を汚してしまった。私はこれを深く反省し、今後は上司の希望を手段を尽くして積極的に実現しなければならない。将来、いつの日かインド侵攻作戦は結構されるだろう。そのときにこそ断じて実現しなければならないと心に深く決めたのである」

久山忍『インパール作戦 悲劇の構図』39-40項

彼にとって二一号作戦の中止は、大本営と南方軍の威信を汚し、そして彼が所属していた第15軍、そしてそれが天皇の意思であることも、彼をより後悔させた。そして何よりも彼は盧溝橋事件の贖罪を二一号作戦(インパール作戦)で果たそうとしたのだ。実際に彼はこう述べていた。

「わたしが盧溝橋事件のきっかけを作ったが、事件は更に拡大して支那事変となり、遂には今次大東亜戦争にまで進展してしまった。もし今後自分の力によってインドに進攻し、大東亜戦争に決定的な影響を与えることができれば、今次大戦勃発の遠因を作ったわたしとしては、国家に対して申し訳が立つ。男子の本懐としてまさにこのうえなきことである」

戦史叢書『インパール作戦』90–91項

何が牟田口を動かしたのか

インパール作戦に影響を与えた
「チンディット」部隊

このように、インパール作戦はいわば牟田口個人の心情によって動かされたが、実はそれだけではない。彼にとってインパール作戦は個人的心情と合理性があったものであった。合理性とは即ちインド・ビルマ国境情勢の変化によるものである。1942年の英国軍は撤退による犠牲により士気が壊滅的であった。更に日本軍呼称で「英印軍」と呼ばれる「インド軍」は1940年5月に中東方面に注力する為に編成された軍である。その為、兵の質は悪く、インド人とイギリス人の士官は若く経験が浅かった。ビルマ占領による劣等感が蔓延する中、そこに一石を投じたのがオード・ウィンゲート准将であった。

オード・チャールズ・ウィンゲート

ウィンゲートが立案したのは長距離侵攻作戦である。これはビルマ内に侵攻し、期間限定で兵站破壊をするものであった。そしてこれはロングクロス作戦として1943年に実施された。約3000名が参加したのだが、成功はしたものの実情は酷いものであった。全員が何らかの感染症になるか重症者となり、事実上の部隊壊滅という不名誉な結果となった。しかし、英国軍はこの時は制空権を有していたので空中空輸に注目していた。1つの事実としてチンディット部隊はこの空中空輸により生き延びていたのであった。これは後のインパール作戦に影響を与える。一方、日本軍は良くも悪くも驚いた。本来なら進軍不可能とされた山岳地帯が進軍可能である事を証明したからだ。牟田口はウィンゲートによる遠征をこのように述べた。

「第15軍は本作戦(ウィンゲート兵団掃討作戦)の結果、地形の認識に重大なる過失をおかしているのを認めた。即ち当該地区の密林は乾季至る所部隊行動の自由のみならず、チンドウィン河も乾季筏等、現地渡河応用材料を以て容易に渡河し得る事是である」

合田英二『インパール作戦において牟田口廉也が
  インド進攻を主張し続けた要因』39項

ビジュー系山とヒマラヤ系山、チンドウィン河が進軍できる事実ができた。きっと牟田口は内心喜んだだろう。ただし、この発言は1つの矛盾を生む。それは飯田参謀が訪れた際に指摘したのは後方の支援について指摘していた。しかし、この発言は部隊移動の観点になっていた。即ち、牟田口蓮也には考えに一貫性がなかった事が分かる。そしてこのようにも述べた。

「(昭和)18年に入ってきたんです、ウィンゲートが。それまで地形というものは一面森林であって、大兵団の作戦に適さないという観測 をわたしは下しておった。それで、(ビルマの)防衛も曲がりなりにもできると思っておりましたが、ウィンゲートが入ってまいりまして、一面の樹海が、 一つの障害として利用するに足りなかったということが分かりました。ビルマ防衛を完全にするためには、むしろ向こうがこちらへ出撃する前に、進んで叩 いた方がよろしいという意見具申を(ビルマ方面軍司令官の河邊正三中将に対し)(括弧内筆者)したんです 」

合田英二『インパール作戦において牟田口廉也が
  インド進攻を主張し続けた要因』40項

つまり彼は「本来進軍不可能とされた場所から侵攻された事実」に驚き、回想録でも書いたようにその「先入主感的判断の誤に対して痛棒を喰わされた」のであった。このような発言の矛盾や一貫性がないことに対して合田英二は「利用可能性ヒューリスティックに由来する想起容易性バイアスが働き、インドへの進攻可能性を過大に評価したと考えられる」と分析している。

チャンドラ・ボース(左)と
東條英機(右)

第二にインド情勢(これだと語弊があるかも)である。牟田口蓮也は東條英機派の軍事であり、少なからずとも東條の意向は絡む。チャンドラ・ボースはインド独立に熱く燃えた人物であり、東條英機に期待していた。その為、彼は東條英との会談を望んでいたが、あれこれ理由をつけて断っていた。しかし、1943年6月10日に会談し、当時はボースの独立の思いを聴き、彼のカリスマ性などに魅了されたのであった。その為、6月12日に帝国議会でこう演説した。

「帝国は、印度民主の敵たる米英の勢力を駆逐し、真に独立印度の完成の為、あらゆる手段を尽くすべき牢固たる決意を持っているのであります。而して、澎湃たる印度民衆のねつぼうは必ずや実現せられ、米英勢力は駆逐され、其の自由と繁栄との齎される日の遠からざることを私は信じ、且つ其の1日も速くやかならんことを期待するものであります」

笠井亮平『インパールの戦い』130項

このように、インド独立に期待しており、そしてインド独立連盟(IIL)とインド国民軍(INA)を図った。これ以上は逸れる可能性があるので省く。そして重要なのは河辺正三に東條が「戦局を打開してほしい」と頼んだことだ。この頃はビルマ方面軍司令官であった川辺が、第15軍司令官の牟田口と仲であり(後述)、これはインパール作戦は東条(日本軍の総意)であるとする盾をなり、インパール作戦に異を唱えるものを更迭させる暴走のきっかけとされる。

牟田口の協力者

中将時代の河辺正三

今日において「牟田口だけの責任にするのはおかしい」と言う論調が大半を占めてきていると思われる。実際、インパール作戦は大本営の本意である。即ち日本陸軍全体の意思であった。大本営の杉山元参謀長についてある直筆はこう記録している。

「杉山(参謀)総長が、「寺内さんの最初の所望なので、なんとかしてやってくれ」と切に私に促された。結局杉山総長は、人情論に負けたのだ-」

NHK『戦慄の記録 インパール

つまり日本軍は人情論でインパール作戦を認可したのだ。かの有名な『失敗の本質』も、日本軍の人情論について痛烈に批判している。そして、もっともの協力者である河辺正三の存在も大きい。彼は牟田口蓮也と上司部下の関係であり、盧溝橋事件をともに指揮した。1943年3月にビルマ方面軍の創設と同時に牟田口廉也が第15軍の司令官に任命、既にインパール作戦の構想を執行しようと燃えていた。同年6月にビルマ方面軍の面子をラングーンに集めてインパールへの攻勢作戦の机上演習が行われた。勿論、結果は燦々たるものであり、出された結論が「むしろ当初からインパール平地における敵の策源覆滅を作戦目的として自主的に侵攻すべきであると結論に達した」であった。この時点で多くの反対意見がでており、稲田正純と片倉衷参謀が反対したのは有名だろう。しかし、この意見を退けたのは川辺であった。ただし、川辺はアッサム侵攻は許容できなかったが、流石の牟田口もこれには相違に納得せず。そのままインパール作戦へ繋がる。

最後のチャンスは潰えた

アラカン作戦(日本では第二次アキャブ作戦)中のインド第7師団

ここで第二次アキャブ作戦(英国ではアドミン・ボックスの戦い)は、注目すべき点であり、インパール作戦にも影響している。当時の英国ではビルマ奪還に向けた準備がなされていたが、ノルマンディー上陸作戦により上陸用艦艇が取り上げられたことにより、ビルマ反攻の一環としたアンダマン諸島の攻略を断念、更には中国軍はアメリカによりビルマへの攻勢が鈍化、結果的に「アラカン作戦」として1944年2月5日に日本では第二次アキャブ作戦として知られる戦闘が行われた。進撃するイギリス軍に対して、日本軍は軽装備で補給路に進撃して包囲する日本軍ではテンプレであった迂回行動であった。前年にも同じ地域で第一次アキャブ作戦としてイギリスと戦果を交え敗退したが、今回は違った。シンゼイワ盆地において日本軍の第55師団に包囲されたインド第7師団は、日本軍に制高を取っていたので、同師団の防衛陣地を見下ろすことができた。しかし、この時のイギリス軍はアドミン・ボックス(管理箱もしくは立体陣地)と呼ばれる防衛戦術の陣地を築いており、更にここでも空輸が活躍した。イギリス第14軍ウィリアム・スリム中将は空輸による補給を確約し、医療品・弾薬・食料を送り、陸路からも送っていた。スリムは徹底交戦を命じでいた。その為、軽装であった日本第55師団は苦戦を強いられ、兵站が壊滅状態であった同師団は撤退した。ここでイギリス軍は空輸がいかに部隊を存命させるかを知った。その為か、イギリスの公刊戦史ではシンゼイワ包囲戦をターニングポイントとして記述されている。スリムはこう総括した。

「日本兵の強さには手を焼いたが、その結果として案出されたイギリス軍の新戦術に対して、日本軍が従前の戦法を少しも改めなかったのは我々の幸いであった。日本軍の真剣な攻撃にイギリス軍は初めて対抗し、持久し、決定的敗北を与えたのだ。これを追撃し、敵が何か月もかかって構築し死守しようとした、考え得る最も堅固な天然の要害から駆逐した。イギリス兵もインド兵も、兵士対兵士として、最も優れた日本兵に勝ると立証したのである。これは議論の余地なき勝利であり、それは参加部隊はもとより、第14軍全体に影響を与えた」

伊藤正徳『帝国陸軍の最後3(死闘篇)』131項

なお日本軍は結果的にイギリス軍は目的を果たせず、ハ号作戦によりインパール作戦の秘匿としての陽動作戦であり、イギリス軍はインパール方面からアラカン方面に軍を移動させた事により、作戦目的ともに日本軍の勝利であった。誘引されたイギリス軍はインパール方面がほぼガラ空き状態であった。

日本軍の戦闘序列

インパール作戦の作戦目標はインパールとコヒマであり、参加する師団は数字の小さい順から第15師団、第31師団、第32師団の3個師団である。

・第31師団(烈)
約1万6千人でコヒマを目指し、食料3週間分、駄馬300頭、駄牛5000頭を連携させ、重機や火砲が少ない。これは同師団がコヒマを山岳から進軍するために軽装にする必要があった。しかし、その進軍路の関係で兵站は機能しないので、第15、第32師団に命運を握られていた。

・第15師団
約1万6千人インパールを北から攻め、25日分で第31師団よりも軽装である。師団とあるがその実態は大体に過ぎない。

・第33師団
約1万7千でインパールを北から攻める。他の師団より装備が豪華で下方などの火力も充実している。実は南側はそこまで険しくないので他の2個師団のような軽装ではない。

作戦発動と英軍の危機

1944年3月8日にインパール作戦は第33師団インパール南部のティディムに向かって進軍、続けて第15師団と第33師団が進軍して開始された。スリム中将は3つの選択肢がらあった。

  1. チンドウィン川で攻勢作戦を仕掛ける

  2. 現在の前線と防衛線を守る

  3. インパール平地まで交代して決戦を仕掛ける

スリム中将は悩んだ末に3つ目の選択肢を選んだのだが、問題はタイミングであった。しかし、スリムは回顧録において「過ちを犯した」と記した。3月15日に進行は始まるとみていたが、1週間早くインパール作戦を開始させた事により、第17インド師団が唯一まともな第33師団により包囲され、壊滅されかけたが何とか撤退した。その際に2ヶ月分の食料・弾薬・燃料が手に入った。そしてティディムで第17インド師団はティディムにて包囲され、第4軍団長スクーンズ中将により英第23師団を投入、インパール市内は無防備であった。3月28日にインパールは包囲さた。そして第15師団はインパールとコヒマの連絡線を遮断させた。更にもう1つスリムは誤りを犯した。スリム中将は当然インパール以外にもコヒマにも攻撃すると考えていたが、連隊規模だと考えていた。かなり最初に書いたが、そもそも山岳は進軍不可能と日本軍は考えていたので、このスリムの考えてには一理ある。しかし、実際は第31師団の1個師団がコヒマを襲った。ほぼ無防備にちかいコヒマに4月5日にて到着した同師団はイギリス軍と戦闘を行い、「東のスターリングラード」戦が幕を開けた。特に「テニスコートの戦い」は激戦であった。コヒマでの激戦がイギリス第14軍は日本軍による攻勢(インパール作戦)の全貌が掴めていなかった。3月25日にはロンドンの参謀長委員会は以下の悲観的な見解を示した。

「もはやインパール街道とディマプルとコヒマ間の鉄道の持久は望みうすとなった。第4軍団及びスティルウェル軍(在ビルマアメリカ軍)との連携も断たれる可能性が高い。唯一の希望は、有効な防御によって勝利の転機を見出すことである」

児島襄『太平洋戦争(下)』171項

しかし、既に4月中旬になるとインパール作戦は既に破綻していた。第14軍はインパールとコヒマに迫った危機に対処すべくスリム中将とマウントバッテン元帥による緊急会議を開き、インパールの兵力不足を緊急空輸で賄うことが決められた。勿論、これは第一次チンディット遠征とシンゼイワ包囲戦の戦訓を生かしたものである。しかし、輸送機が足りないため、アメリカから借用するしかなかった。そこでマウントバッテンはイギリス人嫌いで有名なスティルウェル中将に、インパールとコヒマが落ちたら援蒋ルートが機能しない旨を伝えたい。これはアメリカ軍が援蒋ルートを重視していたことを利用した脅しに近い。流石のスティルウェル中将も挫き、アイゼンハワーが絶賛したC-47を30機で同意した。これによりインパールとコヒマには兵力不足と食料や物資をフル稼働させて保たせた。激戦であったコヒマの「テニスコートの戦い」は終始イギリス軍が保持することができ、インパールもアドミン・ボックスを使いつつ保っていた。

作戦の破綻

こうなれば既に勝負はついた。兵站を無視した作戦、特に第31師団などは兵站を頼れない以上、これ以上続けば壊滅してしまう。他の2個師団も同じで、兵站を機能しているイギリス軍にもう太刀打ちは出来なくなってきた。その兆候は日本軍も5月下旬に察知していた。現場の場合は4月末から兆候を見せていた。しかし、牟田口は中止を頑なに出さなかった。これは彼の心情が強く関わっているであろう。彼にとってインパール作戦とは盧溝橋事件の贖罪、その贖罪が大敗で済まされ流わけがない。今まで見てきた通り、インパール作戦は合理性よりも牟田口の私情が含まれていた。メンツを汚した罪悪感が彼を動かした。だからこそ彼は頑な中止を出さなかった。しかし、もうそれも限界を迎えた。6月にも中止を進言されるも難色を示す。現場は既にマラリヤや下痢、かの白骨街道を渡るなど、燦々たる状態であった。イギリスの公刊戦史は「いまや、英(印)軍司令官の関心は、(日本)第15軍にもたらした敗北を壊滅へと進める事にあった」と書くほどであり、イギリス軍はそれを実際に実行させた。大本営はやっと7月1日に作戦を正式に中止命令を下した。しかし、そこからの撤退劇は皆が知る通りである。

日本軍史上最大の敗北

インパール作戦は日本軍史上最大の攻勢作戦であり、最大の敗北で終わった。。日本人ならインパール作戦の悲惨なエピソードが山ほどあり、それらが醜いものであるのを知っているだろう。更に醜いのは牟田口は作戦を中止しなかった。もっとも、彼から言わせれば贖罪を果たすための作戦に熱意を注いだ結果が大敗、受け入れ難いのは承知できるが、それでも性質は一発逆転を狙った作戦である以上、インパール作戦は敗北の宿命を背負っていたのではないのだろうか。

この戦争で個人的な感想であるが、牟田口は日本軍により壊れていったのではないだろうか?第18師団時代には的確な指摘をしていた。しかし、日本軍の組織的な体質により、陸軍大学を卒御し、左遷を受けたにも関わらず現場に復帰し、マレー作戦で評価をあげた彼が壊れたのではないのだろうか?私はそう感じた、最後にスリム中将は日本軍を現場と上層部にわけて以下のように評価した文を引用して終わるとする。

「日本軍の強さは上級指導部にあるのではなく、個々の日本兵の精神にあるのだ。彼らは死の直前まで戦い、進軍を続けた500人の日本兵がある拠点の守備を命じられたとしよう。わが軍がその拠点を確保するまでに495人を殺害しなければならない-そして、残る5名は自決してしまうのだ。このような忠誠と勇敢さの結合があったからこそ、いかなる状況下においても日本軍はかくも手強い存在でありつづけた。このような兵士がいてくれれば、どの国の軍でも手強い存在になることだろう」

笠井亮平『インパールの戦い』254-255項

「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、“肉体的勇気”とは異なる“道徳的勇気の欠如”である。彼らは自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がないのだ」

NHK『インパール作戦後の“地獄”指導者
たちの「道徳的勇気の欠如」

ここまでみてくれてありがとうございます。内容は多少は省略したので間違いがあるかもしれません。誤字は指摘してもらえると助かります。

参考文献

・戦史叢書『インパール作戦』
・笠井亮平『インパールの戦い』
・児島襄『太平洋戦争(下)』
・伊藤正徳『帝国陸軍の最後3(死闘篇)』
・戸部良一、その他5名『失敗の本質』
・久山忍『インパール作戦 悲劇の構図』
・関口高史『牟田口蓮也とインパール作戦』
・古峰文三「再検証 インパール作戦」『歴史群像No.151』
・合田英二「インパール作戦において牟田口廉也がインド進攻を主張し続けた要因
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出典明記がない限り全てWikipedia

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